高野山の歴史(1)
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「高野山名所図会」は、地図をメインに高野山の見どころを紹介するオンライン観光ガイドです。
このページでは、高野山の歴史のうち、開創以前から空海入滅後の衰退と再興までをご案内します。
開創以前
古代、高野山の麓、丹生川流域の高野・天野一帯には「丹生(にう)氏」と呼ばれる人々が住んでいました。 「丹生氏」は彩色に使われた朱の原料となる「丹(辰砂)」に関わった人々です。中央構造線沿いなど、水銀鉱床があった場所に住み、丹の産出を行なっていました。今でも全国各地に「丹生」という地名や「丹生神社」が残っています。 丹を製錬して水銀を作る技術を持つ秦氏が大陸から渡ってきてからは、丹の生産の主役は秦氏となり、丹生氏は産出を司る神、丹生都比売神(にうつひめのかみ・通称「丹生明神」)を祭祀する神官となったと考えられています。 弘法大師・空海は若い頃、高野山の辺りで山岳修行をしていましたが、この丹生氏と何らかの関係を持っていたようです。唐に私費留学をすることができた背景にも、丹生氏の援助があった可能性が指摘されています。
高野山の開創伝承
高野山の開創について、平安中期に書かれた『金剛峯寺建立修行縁起』には、以下のような伝承が伝わっています。
弘法大師は唐から帰国する際、真言密教の修行にふさわしい場所を求めるため、三鈷杵と呼ばれる法具を投げた。三鈷杵はたちまち雲にのって日本へ飛んでいった。 帰国した弘法大師が三鈷杵を探して歩いていたところ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)で、二匹の犬を連れた「南山の犬飼」という狩人に出会い、「少し南の山中で、夜な夜な光を放つ松がある」と教えられた。弘法大師が狩人が放った犬について行くと、紀伊国の天野(現在の和歌山県かつらぎ町)で土地の神、「丹生明神」が現れた。実は「南山の犬飼」は、「丹生明神」の子である「狩場明神(高野御子大神)」の化身だった。 「丹生明神」は、「菩薩が私のところに来られたのは幸せです。この山を全てあなたにあなたに献上します」と言って、高野山を弘法大師に譲った。 高野山に登った弘法大師は、広い野原に出た。そして、あの三鈷杵が松の枝にかかっているのを見つけた。弘法大師は「蓮の花のような山々に囲まれたこの地こそ、真言密教の修行にふさわしい。まさに私の求めていた場所だ」と喜んだ。 早速ここを根本道場に定め、山の上に伽藍を造り、そこに丹生明神と狩場明神も祀った。