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「即身成仏」の伝説化と後継者・反抗者たち

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宗教都市・高野山で生み出された真言密教には、どのような哲学があるのでしょうか。 このページでは、空海入定後、後継者たちが「即身成仏」をどのように伝説化していったのか、そして密教に対する反抗者たちが、空海の思想をどのように受け継いでいったのかを考えます。

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「即身成仏」の伝説化

実際には、空海が「即身成仏」の縁起に託した願いは、オリジナルのままで伝わったわけではありません。 最澄が自ら不完全であることを自覚していたために、それを補完する優れた後継者たちが育った天台宗に対し、真言宗は空海が偉大すぎたためか、後継者に恵まれたとは言えませんでした。空海の思想の継承よりも、空海の偶像化、伝説化が進んでしまったのです。 10世紀には、東寺の僧侶が奥の院で生身の空海に会ったと報告。高野山にもともとあった山岳信仰の「入定」と結びつき、「即身成仏」が「生物としても生き続けること」だと信じられるようになりました。 さらに10世紀後半から11世紀にかけて、末法思想を背景に「弥勒下生信仰(いつか弥勒菩薩が救世主としてこの世に現れる、という信仰)」が流行すると、これも「即身成仏」と結びつきます。空海が「自分も弥勒菩薩と一緒にこの世に戻ってくる」と遺言したと伝えられるようになったのです。 11世紀には入定信仰と弥勒下生信仰が融合し、生きたまま土に埋められてミイラ化し、弥勒菩薩がやってくるときまで、生死の境を超えて人々の幸せを祈り続ける「即身仏」を目指す僧侶たちが現れます。彼らの多くが、空海も同じことをしていると信じていました。 一方、空海と同じ9世紀に編纂された「続日本紀」では、空海の遺体が火葬されたことが書かれています。 しかしどんな伝説に変容したとしても、縁起は縁起。「生きている」という言葉の意味が、「実存している」「縁起している」という言葉と同じだとすれば、生物としての生死はともあれ、「空海は今も生きている」と言ってもおかしくはなさそうです

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「即身成仏」を受け継いだ反抗者たち

平安末期から鎌倉時代にかけて、日本では新たな宗教改革が始まります。ポピュリズム志向が高い改革者たちの主なターゲットは、腐敗がますます進み政治介入も激しかった「南都(奈良仏教)」と「北嶺(天台宗)」でしたが、形骸化が進んでいた真言密教も「エリートのための宗教」として批判にさらされました。 浄土宗を開いた法然は、「即身成仏へのステップは、庶民にはハードルが高すぎる」と批判し、「そんなことをしなくても、南無阿弥陀仏さえ唱えれば救われる」と説きました。 その法然を受け継ぎ、浄土真宗を開いた親鸞も、「密教なんて知らなくても、阿弥陀様が救ってくれるんだよ」と語りました。 さらに日蓮宗を開いた日蓮は、「お釈迦様は法華経が第一だっておっしゃっていたのに、大日経が第一なんてとんでもない。そんなものを信じていたら、現世では自分自身と国を滅ぼし、死んだら無限地獄に落ちる」とまで言って批判しました。 浄土真宗と日蓮宗では、「虚空の思想」を説いた般若心経を、原則として唱えません。 しかし彼らは真言密教の本尊や経典、修行を否定しつつも、空海が「即身成仏」にこめた現世肯定の方向性については、さらに強く推し進めていきます。 親鸞は「煩悩をなくす必要はない。その支配を受けない涅槃の境地に達するだけでいい」と言い、日蓮は「毒は使い方しだいで薬になる。欲望や煩悩も、むしろ智慧の火を燃やすエネルギー源になるのだ」と説きました。 実はこの改革者たちも、高野山と深い縁があります。仏教の学術面については、当時最高の大学だった天台宗の比叡山延暦寺で学んだ彼らですが、高野山にも籠もっていた時期があるのです。あの日蓮さえも、高野山の五坊寂静院で学んだと伝えられていますし、法然や親鸞にいたっては、奥の院に墓碑がつくられたほどです。 「煩悩否定」の宗教を「煩悩肯定」の教えに変えてしまった彼らの背景には、高野山で空海の「即身成仏」に思いを馳せていた日々もあったということになります。 「釈迦の成仏」という縁起が、例えばミャンマーと日本ではまったく違う形になりながらも2600年続いているように、「空海の即身成仏」という縁起も、真言宗、浄土真宗、日蓮宗と多様な「色」で彩られながら、1200年経った今も続いているのです。