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「小田原北条家」が「家康の天下取り」の礎を作った?

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高野山・奥の院には、「戦国時代の始まりと終わり」を象徴する小田原北条家の墓所があります。 小田原北条家(後北条氏・北条五代)は、北条早雲(伊勢宗瑞)、北条氏綱、北条氏康、北条氏政、北条氏直と、5代にわたって発展を続けた戦国大名。上杉謙信や武田信玄の猛攻を防ぎきった、関東地方の覇者として知られています。 一方、北条家は内政に力を注いだことでも知られ、特に3代・北条氏康は戦国随一の民政家とも言われます。しかしその成果が、北条家から関東支配を引き継いだ徳川家の「天下取り」をどう支えたか、語られることはあまりありません。 寒村・江戸を大都市に成長させ、利根川をつけかえて関東を豊かにしたという家康の「江戸入府伝説」。その家康の功績を称えるために「なかったこと」にされてしまった、「北条の国作り」について考えてみます。

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小田原北条家とは

21町石の近く、参道の左側(北側)に、「小田原北条家墓所」への案内の碑がたっています。

奥の院(北条五代~吉川元春)

小田原北条家の戦いといえば、北条氏康の「河越夜戦(河越城の戦い)」が特に有名です。上杉憲政、上杉朝定、足利晴氏などの連合軍8万を、1万前後の兵で奇襲して圧倒的な勝利をおさめ、関東地方の勢力図を塗り替えてしまった合戦です。厳島の戦い、桶狭間の戦いと並ぶ日本三大奇襲に数えられています。 他にも、北条早雲の伊豆討入りや小田原城乗っ取り、第一次、第二次の国府台の戦い、上杉謙信や武田信玄の小田原城攻めを防いだことが知られていますが、それ以外は、北条家はどちらかと言うと戦闘よりも、外交戦略を駆使して勢力を拡大を実現し、内政の整備によってじっくりと統治を根付かせた大名でした。 このことは、戦国大名が生き残るために大切なことは、「軍事」よりも「統治」だったことを示しています。

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北条家が掲げた「国家安泰」

武士団は、平安時代から土地の支配は行っていましたが、それは断片的なものであり、広範囲にわたって統治を行っていたわけではありませんでした。土地の権利が複雑に入り組んでいたため、守護や地頭も、名目上の勢力圏を、しっかり把握できてはいなかったのです。そのため統治能力を磨くよりも、他の勢力からいかに支配権を簒奪するか、ということが優先されました。 戦国時代は、大名家によってかなり差はあるものの、その支配権の簒奪がかなり進んだこともあり、武士が広範囲の一元的な支配(一円支配)を実現した時代です。その次に求められるのは、統治機構としての能力を磨くことでした。 つまり武士たちは、「戦士」であることよりも「官僚」であることが求められる時代になりつつあったのです。天下統一によって戦闘がなくなったから、急にそうなったわけではありません。 北条家も、5代の歴史を俯瞰すると「土地を奪う」ことを繰り返して領国を拡大しています。しかし1代ごとに見ると、そのスピードは緩やかで、領国の面積を広げるよりも統治を深めることに注力していることが分かります。 そのことをよく示すのが、2代・北条氏綱が病に倒れ、3代・北条氏康に家督を継がせる際に伝えた「五か条の訓戒状(北条氏綱公御書置)」のうちの以下の2条です。 ・ 武士か農民かを問わず、すべての民を慈しむこと。必要とされない民はいない。 ・ 合戦に勝ちすぎてはいけない。勝利は驕りのもとであり、敵を侮る原因になる。 北条氏康の治世は、この父の遺訓を体現したものでした。 「民から搾取し、合戦に駆り立て、敵地では略奪に励む」戦国大名から、「民を豊かにし、敵から守り、天災の被害から救済する」国民国家への脱皮を目指したのです。 実際、北条家が発給した文書には「国家安泰」「国家安危」「国法」「公儀」という言葉がよく見られます。司法や立法を確立し、公平な調停者としての存在感も高めることで、大名が庶民を暴力で脅して搾取する存在ではなく、法に則って庶民を守る存在であることをアピールしているのです。 「北条家の危機は庶民の危機と同じことだから、庶民も、自分たちの生活を守るために積極的に軍役に協力せよ」 というわけです。一種の「国民国家」をつくろうとしていた、と言ってもいいでしょう。 その例として、北条氏康が行った税制改革では、それまでさまざまな名目で取っていた税を統合して、民の負担を軽減することが図られました。 いわゆる「四公六民(他の大名は収穫の5割を取っていたが北条家は4割だった)」という話は、現在は「そこまで単純な話ではなかった」ということで否定されていますが、中間的な存在による恣意的な搾取を減らすことで、北条家と領民の双方にメリットがあるシステムをつくったのです。 これによって損をするのは、「土豪」とも「国人」とも呼ばれる中間的な存在です。彼らは地域の有力者で、武士であると同時に有力百姓でもありました。武装することである程度の独立性を確保し、同時に下層農民からの搾取を行っていたのです。 北条家は支城網を整備し、軍事力を背景に、彼らに対し「北条家の侍になって軍役を負担するか、名主(または代官)になって法にのっとって農民を統率し、公平な年貢取りに協力するか」を迫ります。軍事機構、または統治機構のどちらかに組み込むことで、法を守らせ、恣意的な搾取ができないようにしようとしたのです。 それでも、放っておけば当然、名主や代官による「恣意的な搾取」は発生します。そこで北条氏康は、「目安箱」を設置し、横領や搾取があったら北条家に直訴することを認めました。 このように、「中間層」を徹底的に管理することで「法の支配」を実現しようとしたのが、北条家の統治の特徴です。 あとは、飢饉や大地震などの天災があった際に、当主の代替わりを行い、それを名目に領民の負債を帳消しにする「徳政令」を実施したことでも知られています。「徳政令」はデメリットも大きい劇薬ですが、「当主の代替わり」というビッグイベントに伴う緊急措置としてであれば、モラルハザードも起こしにくいのです。 こうして支配体制を固めたことが功を奏し、戦闘能力ではるかに勝っていたはずの上杉謙信は、「越山」を何度繰り返しても、北条家の支配を崩すことができませんでした。

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北条家の「滅亡」と高野山

しかし、北条家が着実に積み上げてきた支配構造も、ただ一歩を踏み間違えたために、一気に崩れ去ることになります。 1990年の豊臣秀吉による小田原征伐で、北条家は籠城の末に降伏。このとき北条家は滅亡したとも言われますが、必ずしもそうではありませんでした。 この「戦国大名・小田原北条家」の終焉には、高野山が深く関わっています。 当主の北条氏直は、さきほどの河野通直とも似た人物で、自らリーダーシップをとって秀吉に敵対した訳ではありませんでした。家臣の暴走をくいとめられなかったことが、小田原征伐につながったのです。 秀吉もそのことが分かっていたのか、それとも氏直と姻戚関係があった徳川家康に遠慮したのか、氏直は助命され、高野山の高室院で謹慎することになります。 高野山は、憎しみの連鎖を断つことができる場所。敗軍の将が、高野山に入ることを条件に許された例は少なくありません(豊臣秀次のような例外はありましたが、秀次の切腹は秀吉の命令ではなく自発的なものだったとも言われています)。 高野山に入った翌年、北条氏直は早くも赦免され、一万石を与えられます。石高としてはぎりぎりですが、大名として復活したのです。さらにその後、国持大名として復活させる予定もあったと考えられています。どこかで北条家を本格的に復活させ、穏やかな性格だった氏直に遺臣を吸収させたほうが、関東の秩序を保ちやすかったためかも知れません。しかしこの年、氏直が(おそらく天然痘により)病死したことで、その可能性はなくなりました。 北条家は氏直の従兄弟、北条氏盛が継承。現在の大阪府大阪狭山市で、細々とではあるものの一応は「狭山藩」という大名として、幕末まで続きます。 そのためこの「小田原北条家墓所」には、戦国時代の5代に加えて、江戸時代の歴代当主の供養塔が並んでいます。 すべてがうまくいったわけではありませんでしたが、「戦いの時代」が終わるひとつのステップに、高野山は大きな役割を果たしていました。

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「北条の国民国家」が支えた「家康の天下取り」

小田原北条家が関東から去った後、代わりに入ってきた徳川家康は、北条家の統治方針の多くを継承します。 特に北条氏康がつくった税制、つまり民の負担の軽減は、徳川吉宗の享保の改革まで続きます。 さらに、北条家の旧臣のうち、民政に通じた官僚系の武将は積極的に召し抱えて「代官」にしたり、帰農させて「名主」として百姓を統率させることで、北条家が作った中間層管理システムを利用し、発展させました。 こうした国作りで大きな役割を果たしたのが、家康から「関東代官頭」に任命された伊奈忠次という人物です。 伊奈忠次は、それまでの合戦でこれといった武功があるわけでもなく、それどころか2度も徳川家から出奔した過去を持つ人物です。しかし家康は、伊奈忠次の官僚としての能力に目をつけて、新しい「国」づくりを任せることにしたのです。 伊奈忠次が目をつけたのが、北条家が取り組んでいた水運の整備です。北条家は水運を非常に重視し、利根川水運の中継地だった関宿を全力で攻めて奪取。この関宿を拠点に、現在の江戸川、利根川水系で堤防を作ったり、河道をつけかえるなどの土木事業を行っていました。水運の確保に加えて、洪水を減らして水田を守るという目的もありました。 伊奈忠次は、この事業を受け継ぎ、さらに発展させていきます。もともと南の江戸湾に流れ込んでいた利根川を、東の銚子の方に流れさせる「利根川東遷事業」を推し進めたのです。こうした大掛かりな事業によって生産力を上げることは、領主と領民の双方の利益になることでした。 江戸の町づくりや、利根川などの治水事業は、徳川家康の功績を強調する目的もあり、「江戸入府」以降にゼロから始まったと伝えられてきました。しかし今では、どちらも北条家の統治期から行われており、それを継承・発展させたものだったことが分かっています。 「強兵」として知られた三河武士を率いて合戦に明け暮れていた徳川家は、北条家の領土を継承してからは、ひたすら内政に打ち込むことになります。朝鮮出兵にも参加せず、10年にわたって合戦をすることはありませんでした。 その結果、徳川の兵は弱くなり、関ヶ原の戦いや大坂の陣では「真田」相手に無様な姿を見せることになります。しかし、関東を豊かにし、盤石な支配体制をつくったことは、豊臣政権における徳川家の発言力を強化させる上で大きな意味を持っていました。 このことは、家康が政略によって天下を取る上で不可欠の条件でもあったのです。