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仏教と儒教が対立?「名君」が入らなかった池田家墓所

- Zue Maps 高野山 -

高野山・奥の院にある「岡山池田家墓所」には、大きな謎があります。名君と称えられる初代藩主、池田光政の供養塔が見当たらないのです。 いったいどういう背景があったのか、池田光政の人生を探ってみると、江戸時代から先鋭化しはじめた「仏教VS儒教」の対立の構図が見えてきます。

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あの名君が見当たらない「岡山池田家墓所」

一の橋から奥の院に入って、参道を少し進むと、「曽我兄弟供養塔」の先に「岡山池田家墓所」があります。中国地方の大藩のひとつ、岡山藩(31万石)の藩主たちの墓所です。

奥の院(一の橋~平敦盛)

池田家は、織田信長の重臣、池田恒興を祖とし、その息子の池田輝政が徳川家の縁戚となった(徳川家康の娘、愛姫を妻に迎えた)ことで勢力を拡大。中国地方で広大な領地を与えられ、「播磨宰相」と呼ばれました。本拠の播磨(姫路)に加え、息子たちが獲得した備前(岡山)、因幡(鳥取)、淡路(洲本)を合わせ、一族の合計で100万石近い領土を支配。このうち岡山藩と鳥取藩(合計で64万石)は明治まで続きました。 岡山藩の初代藩主・池田光政は幕府の命で領地替えを繰り返し、姫路藩主から鳥取藩主になり、その後岡山藩主になった人物。岡山藩主として高い政治能力を発揮しました。 備前で大洪水が発生すると被災者の救済に奔走。そして、さまざまな藩政改革を行なって、藩内の中央集権化を図ります。藩校の閑谷学校を開設するなど、教育の向上にも力を尽くしました。 徳川光圀、保科正之と並んで江戸時代初期の三名君に数えられる人物です。 しかし、ここには池田光政の供養塔は見当たらないようです。奥の院の他の場所に立てられているわけでもなさそうです。いったいなぜ、初代藩主であり、「学問と民を愛した名君」と称えられる人物が、高野山奥の院で供養されていないのでしょうか?

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仏教と儒教の「微妙な関係」とは?

この背景にあると見られるのが、池田光政の時代から表面化していた、儒教と仏教との対立です。 紀元前5世紀にインドで始まった仏教と、同じ紀元前5世紀ごろに孔子によって体系化された儒教。 仏教が中国に伝わると、道教と三つ巴の状態になり、時には対立しながらも融合していきます。 日本に伝わった仏教と儒教は、どちらも陰陽五行思想の影響を強く受けた兄弟のようなもの。更には神道とも融合し、思想としては多くの共通点を持つようになりました。 しかし具体的な教義となると、当然、さまざまな違いがあります。現実生活の中では、「仏教を選ぶか、儒教を選ぶか」という選択を迫られることも多々出てきます。 空海の初期の著作「聾瞽指帰」からは、空海が孔子の教えをある程度は尊重しながらも、儒教は視野の狭い道徳に縛られていると考え、「仏教の方が正しい」と考えていたことが伝わってきます。 若い頃の空海は、親の指示に従って官僚となり、国家を支える道を選ぶか、出家して人々の心を救済する道を選ぶかで迷っていました。「親孝行」や「国家への忠義」を説く儒教では前者が、仏教では後者が正しいということになります。 結局、空海は「儒教は現世のことしか考えていない。それではだめだ」と考えて、仏教を選びました。 とはいえ、その後の空海は儒教を否定したわけではなく、むしろ密教の中に儒教の考えも積極的に取り入れ、自らも「親孝行」や「国家への協力」、「現世肯定」を推し進めていきます。

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廃仏運動を繰り広げた「儒家神道」

しかし、そのようにさまざまな思想が混沌と一体化していることに、違和感を覚えている人たちもいました。中世の中国(宋の時代)では、仏教を否定し、儒教を純化させた「朱子学(道学、程朱学)」という思想が生まれます。 朱子学は、当初は仏教を否定しない形(というより仏教の補助的な思想として)で日本に導入されました。しかし徳川家康のブレーンとして活躍した朱子学者・林羅山は、「仏教は来世のことばかり語って虚妄を述べ、現世の社会が抱えている問題を避けている。道徳を無視し、仏僧は不道徳や罪悪に耽っている」と言って、仏教を激しく批判します。 さらに林羅山は、「仏教と神道をごっちゃにするのはけしからん」と言って、仏教の側から神道を取り込んだ「神仏習合」や、神道の側から仏教や儒教を取り込んだ「吉田神道」を否定しました。 林羅山は一方で、「儒教と神道は本来同じものだ」と主張。この二つを一体化させた「儒家神道(神儒合一論)」を推進していきます。こうして、それまで共存していた仏教、儒教、神道のうち、仏教だけが除け者にされる「神仏分離」が始まります。 同時に羅山は、「宇宙の原理は、人間の社会では身分として現れる」という朱子学の立場から身分制度を正当化・絶対化しました。この考え方が、幕藩体制の根幹になっていきます。 江戸幕府は、仏教を系列化させることで徹底的に統制し(本末制度)、寺院と民の関係を固定化(寺請制度)することで、寺院を民衆統制システムに変えてしまいます。幕府に従属する代わりに民衆への支配権を与えられた寺院は、見た目は豊かになっても、「考える自由」を奪われたことで哲学を骨抜きにされ、形骸化した信仰としての「葬式仏教」になっていきました。 その上で幕府は、林羅山の指導のもとに、朱子学を柱にした「日本人の精神」を広めることにしました。 江戸初期の「三名君」と言われる水戸光圀、保科正之、池田光政のうち、水戸光圀と保科正之はこの朱子学の信奉者であり、「神仏分離」の推進者でした。 一方で池田光政は、もともとは陽明学という儒教の別の一派を信奉していました。陽明学は朱子学よりも主観主義的な思想なので、幕府としてはあまり面白くありません。そこで林羅山は池田光政に圧力をかけ、彼も朱子学の信奉者に変えてしまいました。 「三名君」は3人とも、仏教に対しては幕府よりも強い姿勢で臨みます。それぞれの領内で寺院を破却し、僧侶を還俗させる「廃仏政策」を推し進めたのです。 特に池田光政は、幕府の命に従わなかったために「邪宗」とされた日蓮宗の一派「不受不施派」を、キリスト教とともに徹底的に弾圧しました。 池田光政が「神仏分離」と「廃仏運動」を積極的に行っていたことを考えれば、この高野山奥の院に供養塔がないのも納得できますね。ひょっとすると、「統制下にある寺院は保護してもいいが、高野山のような神仏習合の親玉とは関わるな」とでも遺言したのかも知れません。

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「名君」とは別の道を選んだ後継者たち

それではなぜ、池田光政以降の岡山池田家の藩主たちは、(光政の考えに逆らって?)この高野山に墓所を作ったのでしょうか? 「岡山池田家墓所」の右から2番めが、池田光政の息子で2代目藩主、池田綱政の供養塔です。 実は池田綱政は、父の池田光政とは対照的に儒教には関心がなかったようです。そのためか儒教的な観点で書かれた当時の文書では「愚か者」「文盲」と批判されています。「女好きで、70人も子どもをつくった」という話もあります。 しかし彼は、芸術系の分野(和歌・書など)では優れた教養をもっていました。能も得意で、家臣や領民の前で自ら舞って見せたとも伝わります。武士というよりは、公家のような人だったのかも知れません。 しかし池田綱政は内政面でも、さまざまな功績を残しています。 父・池田光政の政治は高い評価を受けたものの、洪水などの天災が相次いだことで、綱政が継いだ頃は財政再建の必要性が高まっていました。 池田綱政は干拓事業や治水事業を行って新田開発に取り組み、財政の立て直しに成功します。 その後は造営事業でも功績を残しています。岡山市を代表する観光地「後楽園(日本三名園の一つ)」や吉備津彦神社の本殿は、池田綱政が造営させたものです。 池田綱政の息子で、第3代藩主の池田継政も善政を行ったため、他の諸藩で一揆が発生したときも岡山藩は平穏でした。継政も絵画や書、能に優れていたというので、祖父・光政よりも父・綱政の方向性を受け継いだのでしょう。 その後の藩主たちも、書画や俳諧や和歌などを好んだといいます。