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「戦国最強の自由人」水野勝成の放浪譚

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高野山・奥の院の東部にある「備後福山 水野家墓所」。ここにある2基の五輪塔は、備後福山藩の初代藩主・水野勝成と妻のお登久(香源院。二代藩主・水野勝俊の母)のものです。 水野勝成は、個性豊かな戦国武将たちの中でも、最も「自由」な生き方をした人物。様々な大名家を渡り歩き、戦功を挙げては喧嘩別れ、といったことを繰り返しました。あの前田慶次も比較にならないほど数奇な人生を送った「傾奇者」だったのです。

備後福山水野家墓所(高野山奥の院)



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徳川、織田、羽柴を渡り歩いた父・水野忠重

水野勝成の父・水野忠重も、息子ほどではないものの、戦国ならではの「渡り鳥」の人生を送った人物です。 水野忠重は徳川家康の叔父にあたります。姉が家康の母・於大の方なのです。つまり家康と勝成は従兄弟同士にあたります。 水野忠重は、徳川二十将の一人にも数えられている武将なのですが、実際には家康の叔父でありながら、織田家と徳川家、豊臣家を行ったり来たりして、誰の家臣かよく分からない人物でもありました。 最初は、兄の水野信元の下で織田信長に仕えます。しかし、1561年に信元と不和になり、出奔。隣の松平元康に仕えました。その後、徳川家において三河一向一揆の鎮圧、今川氏真との戦い、小谷城の戦い、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、高天神城の戦いなどで活躍。 1580年、織田信長から(内通の容疑をかけられて自害させられた)兄・水野信元の旧領・刈谷を与えられ、織田信忠の家臣となります。信長と家康は同盟関係(1580年ごろは従属関係)だったとはいえ、19年前に織田家を離れて家康の下に行った水野忠重を、信長は引き抜き返したことになります。水野忠重は、今度は信忠の家臣として徳川の援軍に行ったりしているので、家康もあまり問題にはしなかった(できなかった)のでしょう。 本能寺の変では信忠のもとにいましたが、何とか脱出。織田信雄に属します。織田信雄が羽柴秀吉の臣下になると、やがて水野忠重も秀吉の直臣として取り立てられます。そして関ヶ原の戦いの直前、酒宴の席で殺害されました。些細な口論が原因だと伝えられますが、はっきりしていません。 石田三成、または大谷吉継の指令を受けた暗殺だったという説も有力です。その場合、ターゲットは忠重に限られず、徳川方の重要人物であれば誰でも良かったようで、関ヶ原の戦いのさきがけだったとも考えられます。


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水野勝成「傾奇者人生」の幕開け

水野忠重の息子、水野勝成の初陣は1579年の高天神城攻めでした。1580年から1581年にかけての第二次高天神城の戦いでさっそく活躍し、信長から感状を与えられています。 1582年の本能寺の変の際も、父・忠重とともに京都にいましたが、脱出しました。その後は徳川家康の下で北条と戦ったり、織田信雄の武将として羽柴勢と戦い、活躍します。 しかし1584年、父の部下を斬り殺したことで勘当され、出奔。ここから水野勝成の15年にわたる放浪物語が始まります。


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7度の出奔と7度の仕官を繰り返した15年

水野勝成の15年の放浪をおおまかにまとめると、以下のような流れになります。 1584年  水野忠重の部下を斬殺し、出奔。 尾張、美濃を転々とした後に京都で暴れまわる。 1585年  秀吉の紀州・雑賀攻めに参加。 仙石秀久の家臣として四国平定に参加。 なぜか与えられた領地を捨てて出奔し、中国地方を放浪。 1587年 肥後の領主になっていた佐々成政に仕官。 佐々成政の武将として、肥後国人一揆の鎮圧で活躍。 しかし佐々成政は一揆の責任を取って切腹。 黒田孝高に仕官し、後藤基次(後藤又兵衛)と戦功を争う。 1588年 黒田孝高の息子、黒田長政と対立して出奔。 小西行長の家臣になる。 天正天草合戦で活躍。 小西行長のもとから出奔し、加藤清正に仕官。 加藤清正のもとから出奔し、立花宗茂に仕官。 立花宗茂のもとから出奔し、放浪生活へ。 1594年 備中の国人・三村親成のもとに身を寄せていたが、茶坊主を斬って出奔。 1595年 ふたたび三村親成のもとに身を寄せる。 同じく三村親成のもとにいた小坂利直の娘との間に子をもうける。 (これが高野山奥の院で水野勝成の供養塔と並んでいる、左側の供養塔の「お登久」です。生まれた子は、福山藩二代藩主・水野勝俊になります) 1598年 豊臣秀吉が死去。再び乱世になる予感が高まる。 1599年 三村親成のもとを離れ、再び徳川家康の配下になる。 家康の命により、父・忠重と和解。 仙石秀久や佐々成政はともかく、黒田孝高も小西行長も加藤清正も立花宗茂も、こんな制御不能な暴れ者を、よく召し抱える気になったものです。 合戦もない状況下で養ってくれた(しかも茶坊主の殺害と出奔を許してくれた)三村親成は、大恩人ですね。水野勝成は、この恩を後で返すことになります。


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関ヶ原の戦いで西軍の拠点を攻略

父と15年ぶりに和解した水野勝成。さらには、かつて仕官し出奔したことがある加藤清正に、妹のかな(清浄院)を嫁がせます。 かなはいったん家康の養女になっているため、実際には家康による勢力形成の一環でした。家康は、伊達政宗や福島正則との間でも同様の婚姻を行っていますが、これらは故・秀吉が禁じた「私婚」であり、家康が敢えてそれを破ったことが、関が原に至る道の始まりになります。 水野勝成と和解した父、水野忠重は、その翌年の1600年、関ケ原の戦いの直前に殺害(暗殺?)されてしまいます。そのため水野勝成が水野家当主となり、刈谷の領土3万石を継ぐことになりました。 関ヶ原の戦いの前哨戦では、曽根城(岐阜県大垣市)に島津義弘の軍勢が鉄砲を撃ちかけてきた事態に対し、井伊直政、本多忠勝から「この戦いはあなたでないと無理だ」と依頼されて援軍に向かい、島津勢を追い払います。 関ヶ原の戦いの本戦には参加せず、西軍の拠点になっていた大垣城の攻略を行いました。力攻めには失敗しますが、本戦が終わった後、津軽為信らとともに城内の武将を内通させ、攻略に成功します。


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大阪夏の陣の活躍で「戦功第二」と評される

大阪夏の陣では、水野勝成は大和方面軍の先鋒の指揮を任されます。道明寺の戦いでは、大将にも関わらず一番槍をあげ、かつて黒田孝高の下で戦功を競い合った後藤基次の軍勢を打ち破りました。剛勇の武将として知られた薄田兼相も、水野勝成の家臣が討ち取ったと言われます。 その次には、真田信繁の隊を壊滅させ、明石全登を討ち取り、大坂城桜門に一番旗を立てました。 こうした活躍の結果、水野勝成は大阪夏の陣での「戦功第二」と評され、所領を倍に増やされます。なお「戦功第一」は、真田信繁を討ち取った松平忠直(結城秀康の息子で、家康の孫)でした。


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革新的な領主としての水野勝成

大和国郡山で6万石を領することになった勝成ですが、本人は数十万石を期待しており、不満だったようです。 4年後の1619年、広島を統治していた福島正則が改易されたことを受けて、水野勝成は備中から備後にかけての領土、10万石を支配することになりました。かつて三村親成の食客となっていた時代に滞在していた地域です。 そして水野勝成は、放浪時代の大恩人、三村親成を福山藩の家老として迎え入れました。三村親成は毛利家の家臣だったため、関ヶ原の戦いの敗戦処理で毛利家が領土を削られた際、所領を失っていたのです。実は三村親成も、兵法に通じた戦略家として知られた武将。かつての恩義に加え、備中・備後の土地柄を把握しており、人的なネットワークが豊富だったことも、水野勝成が三村親成を家老に迎えた理由だったことでしょう。 この三村親成の力添えもあったためか、福山藩主としての水野勝成は、「武辺一辺倒の猛者」というそれまでのイメージを覆すような能力を発揮し始めます。 海上交通を重視した勝成は、それまでこの地域の中心地であった神辺ではなく福山を拠点とし、福山城を築城。 この福山城は、新しく築城された近世城郭としては最後のものになりました。当時は、武家諸法度によって新規の築城が禁止されていましたが、水野勝成に対しては特例として認められたのです。 さらに勝成は、全国でもまれにみる規模の上水道網を整備したり(福山旧水道)、文献に残る中では全国初となる藩札(福山藩独自の紙幣)の発行を行って通貨量の調整に取り組んだりと、斬新な手段による統治を行い、成功させました。放浪時代に社会や経済の成り立ちを見ていたことが役立ったのかも知れません。 隣国・備前の岡山藩藩主で、「江戸初期の3大名君」に数えられる池田光政も、勝成を「良将の中の良将」と褒め称えています。


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「近世日本最後の戦い」島原の乱を終わらせた勝成

水野勝成の戦歴は、福山藩主になってからも終わりませんでした。 大坂の陣から12年後の1637年、九州で起きた島原の乱。地元の島原藩は討伐に失敗したため、幕府は九州諸藩の討伐軍をさしむけます。 一揆勢は島原半島南部の原城に集結し、籠城。板倉重昌が率いる討伐軍の総攻撃をたびたび撃退しました。 板倉重昌では指揮官として力不足だと感じた幕府は、老中・松平信綱を派遣。これに焦った板倉重昌は強引な突撃を行い、戦死してしまいます。まるで、楠木正成の千早城攻めに失敗した鎌倉幕府軍のような状態に陥ったのです。 一揆勢は、籠城を長引かせることで全国のキリシタンの決起やポルトガル(スペインが併合中)の援軍派遣を実現しようと期待していました。 実際には、スペインやポルトガルは極東に援軍を派遣できる状態ではありませんでした。風向きの関係で帆船を運行できなかったこともありますが、実は島原の乱と同じ1637年、ポルトガルの独立派がスペインに対する反乱を起こしていたのです。3年後の1640年、ポルトガルは独立を宣言しますが、この混乱の中でアジアの植民地のほとんどを失います。 しかし、遠いヨーロッパの事情を知らない幕府は(多少はオランダ商館から聞かされていたかも知れませんが、オランダ人は幕府のカトリック国に対する嫌悪感を煽る情報ばかり伝えていたようです)、このままでは鎌倉幕府滅亡の二の舞どころか、日本が植民地化されてしまうのではないかと、危機感を募らせていました。そこで白羽の矢が立ったのが、水野勝成です。 水野家は中国地方の大名であり、九州で起きた島原の乱の鎮圧に参加する義務はありません。しかし、戦国時代の攻城戦を体験している大将格の現役大名は、九州にはほとんど残っていませんでした(一応、立花宗茂や鍋島勝茂もいたのですが…)。 幕府は、高天神城、大垣城、そして大阪城など数々の攻城経験がある水野勝成の力を借りて、何としても、原城を早期に陥落させようと考えたのです。 1638年4月、水野勝成は、すでに75歳という年齢でありながら、しかも九州以外の大名としては唯一の例外として自らの藩兵を率いて原城に参陣しました。 軍議では、立花宗茂や鍋島勝茂が兵糧攻めを主張する中で、水野勝成は力攻めによる総攻撃を強く主張。乱の長期化に対する幕府の危機感を知っていた老中・松平信綱は勝成の案を採用し、原城は総攻撃によって落城しました。その際、水野家の兵は原城本丸の攻略を担当しています。 原城の落城後、水野勝成はこの乱を「武士の戦い」と解釈します。一揆方が善戦した背景には、かつて武士だったキリシタンたちの存在もあったからです。勝成は、戦いが終わった以上は敵将も弔いの対象とし、板倉重昌を討ちとった一揆の幹部、駒木根友房(島津家や小西家の元家臣)の首級の前で弔いの舞を披露しました。 しかし幕府は、この乱を単なる農民反乱と見なしていました。それに不満をいだいた勝成は、抗議の意味をこめて隠居します。 「凄まじくて、誰も縛ることができない(倫魁不羈)」と言われた水野日向守勝成。 1579年の高天神城攻めから1638年の原城攻めに至るまで、60年近くも前線で戦い続けたこの「鬼日向」は、近世の初期を誰よりも自由に生きた人物だったといえるでしょう。 なお、この島原の乱をきっかけに、幕府はポルトガルとの国交を断絶。西洋との交流は長崎出島のオランダ商館を通してのみ、という「鎖国体制」が完成しました。 そして島原の乱から19世紀の戊辰戦争までの2世紀以上もの間、日本では大規模な戦闘は起きませんでした。日本の「近世」を「信長の上洛から幕末の開国まで」と定義する場合、水野勝成と松平信綱が終わらせた島原の乱は、近世における最後の戦いであり、完全な意味での「戦国時代の終焉」だったということになります。