織田信長と高野山-なぜ「仏敵」の墓が聖地につくられたのか-

高野山・奥の院の最深部、弘法大師御廟にとても近い場所に、織田信長の供養塔があります。 織田信長といえば、比叡山を焼き払い、本願寺と死闘を繰り広げ、高野山も攻めようとした「仏敵」。自ら「第六天魔王(欲望の世界を支配し、仏教修行を妨げる魔王)」と名乗ったほどの人物です。高野山はなぜ、その信長を供養しているのでしょうか?

織田信長と仏教

織田信長といえば、キリスト教を保護する一方で比叡山を焼き討ちし、本願寺と10年にわたって死闘を繰り広げた「仏敵」です。高野山も、1300人の高野聖が処刑された上に、信長の家臣たちに攻め込まれる寸前まで至りました。本能寺の変がなければ、比叡山と同じ運命をたどる可能性もありました。 なぜ、数ある武将や高僧たちの中でも、最も空海に近い場所に「仏敵」織田信長の供養塔があるのか。供養塔が立てられた経緯を見ると、いくつかのヒントがあります。

ヒント1 今川義元を討ち取った武将

ヒントのひとつは、織田信長の家臣で、あの桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った毛利良勝(新介)の弟が、高野山の寺院の住職になっていたことです。この住職は盛存房堯海という名で、織田軍に従軍し、丹羽氏、浅野氏、池田氏、福島氏など多くの家臣の帰依を受けました。この寺院は悉地院で、現在は無量光院に併設されています。 本能寺の変で、毛利良勝は織田信忠とともに二条御所で討ち死にします。盛存房堯海は、悉地院に兄や信長の墓をつくり、供養しました。 しかし、その盛存房堯海の思いは理解できるとしても、悉地院に立てられたはずの供養塔がなぜ、今は奥の院の空海のそばにあるのか、という謎は残ります。

ヒント2 比叡山のリーダーの言葉

それについて考えるきっかけを与えてくれるのは、別の宗派になりますが、比叡山延暦寺のリーダーの一人の言葉です。 信長の焼き討ちから4世紀が経った1970年、天台宗大僧正であり、延暦寺副執行でもあった小林隆彰氏が、以下のように主張したのです。

「比叡山側にも焼かれる原因があった。いたずらに信長を憎むのは仏の道に反する」 「焼き討ちは、叡山僧の心を入れ替えた。物に酔い、権勢におもねていた僧は去り、再び開祖のお心をこの比叡山にとり戻そうとした僧が獅子奮迅に働いた」 「信長は後世の僧達にとって間違いなく一大善智識の一人であったと思うべき」

出典: 小林隆彰『比叡の心』

この言葉に天台宗の学者や信徒たちは強く反発しますが、小林氏はこの「信長恩人論」を粘り強く主張し続けます。その結果、比叡山では毎年、焼き討ちの犠牲者と信長を同時に追善回向する法要が営まれるようになりました。 高野山が、奥の院の空海に最も近い場所に信長の供養塔を受け入れた背景には、小林氏の言葉と同じような考えがあったのかも知れません。

高野山奥の院の「織田信長供養塔」

奥の院(織田信長~弘法大師御廟)

高野山の織田信長供養塔は、豊臣家墓所から弘法大師御廟に向かって少し進み、最後の橋「御廟の橋」の手前を左に入っていったところにあります。

奥の院の歴史探索-高野山に眠る武将や僧侶、女性たちの物語-