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謎に包まれた「猛将」柴田勝家の実像とは?

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高野山・奥の院のほぼ中央にある「中の橋」の西側(市川團十郎の墓所がある辺り)から少し北に(山の方に)入っていくと、織田信長の重臣、柴田勝家の墓所があります。 苔むした五輪塔の前にある「柴田修理勝家墓」と書かれた標柱が目印です。同じぐらいの大きさの五輪塔が並んでいるので、注意して見ないと、見落としやすいです。

この柴田勝家という人物、織田家の重臣中の重臣でありながら、信頼できる関係史料が少なく、多くの謎に包まれています。 しかし少なくとも、「太閤記」などで書かれたイメージが正確ではないことははっきりしているようです。 多くの謎に包まれた「猛将」柴田勝家とは、どのような人物だったのでしょうか?


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柴田勝家は「猛将」なのか?

柴田勝家は、「鬼柴田」「瓶割り柴田」「かかれ柴田」という異名を持つ織田家随一の猛将として知られています。 武勇を誇り、合戦では最前線で活躍していたイメージがありますが、それはよく考えてみると、少し変な話です。 柴田勝家が生まれた年は正確には分かっていませんが、1522年~1527年の間だろうと見られています。1534年生まれの織田信長よりも一回り年上です。 しかも、勝家の合戦での活躍が記録されているのは1568年を過ぎてから。もはや若武者たちと体力勝負ができる年ではありません。確かに畿内平定戦の「勝竜寺の戦い」などで先陣をつとめていますが、それはあくまで指揮官としての活躍です。 柴田勝家は確かに、豪快な性格の武将だったと思われますが、彼の「猛将」としての評価は、「猛者」たちをうまく使いこなした統率力に由来していたのでしょう。


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柴田勝家は本当に「宿老」だったのか?

柴田勝家は、太閤記など多くの創作物で「織田家第一の宿老」として描かれています。それは半分当たっていますが、実際の意味合いは太閤記の描写とは大きく異なります。 勝家は確かに、織田信長の父、信秀に重用された「信長が家督を継承した頃からの織田家の重臣」でした。しかし信長の家督継承をきっかけに、勝家の運命は暗転します。 信秀の生前から、織田弾正忠家は本拠地の末森城を信秀が統治し、那古野城を信長が統治するという二元体制になっていました。信秀が病に倒れてから、末森城を中心とする統治は信長の弟、信勝に委ねられます。その際、信秀の重臣だった勝家は、信勝の統治を支える家老に任じられます。つまり勝家を含め、信秀直系の家臣たちは信勝に仕えることになったのです。 こうした父子の分散統治体制には、家臣団を掌握しやすくなるというメリットもあり、多くの戦国大名が行っていました。しかし状況によっては、二つに分かれた家臣団同士の主導権争いが、父子の対立に発展することもありました。有名なのは伊達家、武田家、大友家、浅井家、斎藤家の事例です。徳川家でも、家康の浜松衆と信康の岡崎衆の対立が、信康の切腹をもたらした主因のひとつだったと見られています。 織田家でも、もし信秀が長生きしていたら、信長が武田義信や徳川信康のような運命をたどっていた可能性もあったのです。 信秀の死後、勝家たち「末森派」は自分たちこそが主流派だと考え、二元体制を解消するために信長の排除を計画しました。しかし「稲生の戦い」で勝家は信長の「那古野派」に敗れて降伏。その後は信勝が勝家を蔑ろにしたこともあり、勝家は信勝を見限り、信長に仕えることになりました。 つまり、柴田勝家は「末森派」の織田信秀にとっては重臣であり、織田信勝にとっては宿老でしたが、「那古野派」の織田信長にとっては、降伏してきた新参者にすぎなかったのです。それどころか、信長を排除しようとした過去は、出世には大きな障害となりました。


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柴田勝家の最大の功績とは?

それではなぜ、信長にとっては「降人」にすぎなかった勝家が、再び織田家随一の重臣と言われるほどに出世したのでしょうか? はっきりしているのは、勝家の出世は、少なくとも最初の10年間については、「武功」によるものではなかったということです。 信長が戦国大名としての地位をかためていた時期(尾張・美濃を平定していた時期)、信頼できる文献には、柴田勝家の合戦での活躍は記されていません。 その代わり勝家は、「末森衆」のまとめ役を任されたことが分かっています。末森衆とは、信秀と信勝の近くに仕え、信長の那古野衆と戦って敗れた武将たちです。やむなく信長に従うことになったとはいえ、本来は自分たちこそが織田家の主流だという意識があり、いつ再び決起するか分かりません。勝家は、そうした不満分子たちを信長に心から臣従させるために、大きな役割を果たしたと見られるのです。 「猛将」としての豪快なふるまいも、その手段のひとつだったのかも知れません。


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司令官としての柴田勝家

こうした10年間の地道な努力が評価され、ようやく柴田勝家にも合戦での活躍の機会が与えられます。 信長の上洛戦において、先陣の軍を率いることになったのです。織田家が「天下」を目指して新たなステージに進む際、秀吉や光秀と並んで、重要な仕事を任せられる人材として抜擢されたということになります。 もちろん、末森衆への影響力を持つ勝家は、織田家の中でも特別な存在になっていたでしょうが、おそらく丹羽長秀ほどではなかったと思われます。そのことは、木下藤吉郎が「羽柴」に改姓する際、「丹羽」の後ろの文字に「柴田」をつなげるという、序列が逆であったなら考えられなかった形になっていることからも想像できます。 一方で司令官としての勝家は、「信長の宿老」である丹羽長秀を上回る活躍を見せます。その活躍を可能にしたのは、勝家個人の武勇ではなく、個性豊かな与力をつけてもちゃんと統率ができる能力にあったようです。


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実は「武断派」ではなかった?勝家の人間性とは

その柴田勝家の人を引きつける力の源は、武断派のイメージとは裏腹に、「寛容さ」にあったようです。 確かに勝家には、籠城に際して水瓶を叩き割って決意を示したという「瓶割り柴田」の話や、信長の側近を無礼討ちにしたという話も伝わっていますが、どこまで本当かは分かりません。 勝家について、数少ない同時代の記録を残したルイス・フロイスによると、勝家は禅宗を信仰していたが、他の宗教の布教に対しても寛容だったといいます。 そして、柴田勝家の人間性を特に分かりやすく伝えているのが、彼が秀吉に敗れ、最期を迎える直前のエピソードです。 「賤ヶ岳の戦い」の最大の敗因を作ったのは、佐久間盛政の独断専行ではなく、前田利家の戦線離脱だったという説が有力です。これがきっかけで柴田勢は動揺し、総崩れになりました。 勝家は敗走する道中で前田利家のもとを訪れ、「君と秀吉の関係は理解している。自分のことは気にせず秀吉と和解せよ」と言って利家を許したといいます。 このエピソードは前田家の記録によるものであり、利家の裏切り行為を擁護する意図で書かれたとも言われていますが、ルイス・フロイスの記録にも似たようなことが書かれており、勝家がそのような人間性を持っていたことが伺えます。 もし彼が織田政権を引き継いでいたら、どのような世の中を作っていたのでしょうか?