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「曾我兄弟の仇討ち」源氏将軍家を滅ぼした復讐劇とは

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高野山・奥の院にある「曾我兄弟の仇討ち」の供養塔。曾我兄弟の仇討ちは、日本三大仇討ちの一つに数えられ、武士の精神の理想形のひとつとしてもてはやされました。 しかしこの復讐劇の背景には、さまざまな権力闘争の連鎖がありました。それらの抗争を掘り下げていくと、東国武士たちがなぜ、どのように「鎌倉殿」の一家を滅ぼしたのかが浮かび上がってきます。

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「曾我兄弟の仇討ち」とは

18町石の近くに、鎌倉時代初期の「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成と曾我時致の供養塔があります。仇討ちの原因となった彼らの父、河津祐泰の供養塔もあります。

奥の院(一の橋~平敦盛)

「曾我兄弟の仇討ち」とは、鎌倉時代初期、源頼朝が征夷大将軍に就任した1192年からちょうど一年後に起きた復讐劇のことです。 1193年6月、源頼朝は征夷大将軍としての権威を誇示するため、富士山麓に御家人を集めて壮大な巻狩り(神事や訓練のために行われた大規模な狩猟)を催します。「富士の巻狩り」です。 巻狩りが始まって12日ほどが経ったとき、工藤祐経という御家人が、宿泊していた旅館で殺害される事件が起きました。下手人は曾我祐成と曾我時致の兄弟。工藤祐経は、1176年に彼らの父、河津祐泰を殺害した人物でした。その後17年を経て、成長した兄弟が父の仇を討ったのです。 兄の祐成はその場で討たれますが、弟の時致はさらに源頼朝の館に押し入り、近習によって取り押さえられます。そして頼朝に対し、仇討ちに至った経緯を述べた後、斬首されました。 これが「曾我兄弟の仇討ち」の表向きの概要です。儒教精神が高まった江戸時代以降、このエピソードは親孝行の究極の姿としてもてはやされるようになりました。 戦前(昭和前半)の小学校でも、「国史」や「修身」の授業で、楠正成の「千早城の戦い」などとともに「曾我兄弟の仇討ち」の物語が熱く語られ、子どもたちの血を沸き立たせたといいます。

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「曾我兄弟の仇討ち」と源頼朝

しかし今では、この復讐劇は個人の物語には留まらず、他の人物による復讐劇や、さまざまな権力闘争とつながっていた可能性が高いと考えられています。 その原点のひとつは、息子を殺された源頼朝による復讐劇です。 源頼朝の最初の妻は北条政子ではなく、「流人」頼朝の監視役であった伊豆の領主、伊東祐親の娘(八重姫)でした。 しかし1175年、伊東祐親は何らかの理由(頼朝が北条政子とも結ばれたからという説も)により源頼朝と対立。八重姫が産んだ頼朝の長男(3歳になっていました)を水に沈めて殺してしまいました。さらに頼朝自身をも殺害しようとしますが、頼朝は難を逃れています。 細かい経緯についてはさまざまな説がありますが、いずれにしても、伊東祐親は頼朝を「貴種」として利用する目的で近づけておきながら、頼朝が簡単に操れる人物ではないことが明らかになると、一転して抹殺しようとしたことになります。 それから5年後の1180年、源頼朝は挙兵。いったんは伊東祐親たち平氏側が勝利するものの、のちに敗北。伊東祐親はいったん助命されるものの、自害します。 実は、曾我兄弟の父、河津祐泰はこの伊東祐親の長男でした。つまり曾我兄弟は伊東祐親の孫ということになります。 代ごとに名字が変わっているのでややこしいですが、系図にすると「伊東祐親 - 河津祐泰 - 曾我兄弟」という構図です。 河津祐泰が工藤祐経に殺害されたのは、伊東祐親が頼朝の長男を殺害した翌年の1176年です。工藤祐経が実際に狙ったのは伊東祐親。工藤祐経も伊東祐親の娘を妻にし、その後伊東祐親の意向で離縁させられたという経緯がありました(その背景には所領争いや他の復讐劇もあります)。 そのため、伊東祐親に対して同じような恨みを抱えた源頼朝が、工藤祐経をそそのかせたとも言われています。 そうだとすると、曾我兄弟にとって頼朝は祖父の仇敵であることに加えて、父の仇敵の一人でもあるということになります。 曾我兄弟は、富士の巻狩りで工藤祐経を討ち果たしましたが、弟の曾我時致はさらに、頼朝の寝所をも襲撃しています。それまで北条時政が曾我兄弟の後援者であり、曾我時致が元服するときの烏帽子親でもあったため、「曾我兄弟の仇討ちは北条時政による源頼朝の暗殺未遂事件だ」とも推測されています。その真相は分かりませんが、少なくとも、曾我兄弟が頼朝に恨みを抱いていた可能性は高いのです(少なくとも、頼朝は彼らの祖父である伊東祐親の仇敵ですから)。

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仇討ちをきっかけに殺された源範頼

この2つの仇討ちの連鎖は、さらに新たな因果を生んでいきます。 北条時政の娘、北条政子が、夫の頼朝に対し「曽我兄弟の仇討ちの時、あなたも討たれたというデマが伝わってきたけど、そのときあなたの弟(源範頼)が、『頼朝がいなくなっても、自分がいるから大丈夫』と言ったのよ。事件の黒幕は源範頼さんよ」とうようなことを言ったのです。 源範頼も、原小次郎という曾我兄弟の同腹兄弟を郎党にするなど、曽我兄弟とのつながりがありました。 しかし源範頼は、源義経とは違い、頼朝の指示に対してどんなことでも従ってきた忠実な弟です(義経を討て、という指示だけは聞かなかったようですが)。 北条政子としては、源範頼を黒幕にすれば、曽我兄弟の後援者だった父の北条時政への疑惑をそらせるというメリットがあります。そういった背景から推測すれば、源範頼が本当にそんなことを言ったというより、北条政子が父を守るために偽りを言った可能性のほうが高いと言われています。 源頼朝にとっても、源範頼は便利な駒である一方で、もし逆らったら面倒なことになる潜在的なライバルでもありました。そこで北条政子の言葉を信じ、源範頼を伊豆の修禅寺に幽閉。さらに殺害させてしまうのです。源範頼の長男も一緒に殺害されたとみられています。 源範頼の次男と三男は幼少だったため許され、後に範圓、源昭と名乗る僧侶になりました。範圓と源昭の兄弟は、父と兄の仇である北条家に対する復讐をすることありませんでした。 どこまでも続きそうだった「悪因悪果」の連鎖は、ここでようやく止まりました。範頼の死から100年後に、範圓のひ孫が北条得宗家に対するクーデター未遂事件を起こしますが、さすがにこれは、また別の話でしょう。

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「源氏将軍家の滅亡」がもたらした結果とは

「曽我兄弟の仇討ち」をきっかけに源範頼の系統が事実上断絶したことは、のちに「源氏将軍家」が滅亡する上で大きな意味合いももたらしました。 源実朝と公暁の死後、源氏将軍家の有力後継者がいなくなっていたことで、紆余曲折の末に公家出身の藤原頼経が4代将軍になりました。源頼朝の妹のひ孫にあたるとはいえ、とても「源氏将軍家」のメンバーとはいえない人物です。後に源頼家の娘を妻にするものの、彼女は難産の末亡くなったため、頼朝の直系は断絶することになりました。 しかし源範頼の系統が健在であれば、源実朝の死後も、北条氏の傀儡ではない「源氏将軍」の幕府が継続していた可能性も考えられました。 つまり曾我兄弟は、考えていた形ではなかったにせよ、将軍家から後継者を奪い、「本当の仇」である源頼朝に対する復讐を成功させたことになるのです。

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「鎌倉殿」と「東国武士団」の対立は宿命だった?

曽我兄弟の仇討ちで最も利を得たのは、曾我兄弟を保護していた北条時政の一族でした。仇討ちの直後の動きから見ても、北条時政が源頼朝の暗殺まで狙っていたかどうかはともかく、曽我兄弟の狙いを知った上で利用していた可能性は十分に考えられます。 北条時政は確かに謀略家でした。源頼朝の死後、他の御家人たちを次々と追い落とし、北条家の権力を確立していきます。謀略をやりすぎて、挙句の果てには息子・北条義時と娘・北条政子に離反され、失脚してしまったほどです。 しかし、「曽我兄弟の仇討ち」の背後には、「北条時政」という個人の野望に留まらない話もたくさんあります。 そのひとつが、御家人(東国武士)たちの反・権力志向です。彼らは自分たちが切り拓いた土地を、なるべく中央政権から介入されずに支配したいと考える、独立志向が強い人たちでした。 御家人たちにとっての「鎌倉殿」つまり源氏将軍家とは、自ら土地を切り拓いた武士ではなく、貴族出身ではあるけれど武士の利益を代表してくれるという、中間的な存在です。 西の権力に立ち向かう旗印にしたり、所領のお墨付きをもらったり(土地を支配する大義名分を得る)、ライバルを蹴落とすために使う「玉」としては便利ですが、自分たちの独立を脅かすほど権力を持たれても困る存在だったのです。 「鎌倉殿」の権力をほどほどに抑えたいというのは多くの御家人の本音であり、この時点での北条家はそれを代表する勢力のひとつにすぎなかった、とも考えられます。 源頼朝の死後、後継者の源頼家は将軍の権力を強化しようとしますが、挫折。そして比企能員の変の後、源頼家が北条時政を討伐するよう呼びかけても、従う御家人はいませんでした。 畠山、和田、三浦、平賀など、後に北条家に滅ぼされる一族も、このときは北条時政と歩調を合わせて「鎌倉殿」を追い落としたのです。 後年、今度は北条家が中心となって中央集権化を進めますが、東国武士の原点を忘れた「得宗専制」は、北条家の滅亡を招く最大の原因になりました。 「曾我兄弟の仇討ち」に関連した話に戻ると、源頼朝と戦って敗れた「伊東祐親 - 河津祐泰 - 曾我兄弟」の一族も、典型的な東国武士団でした。そしてこの一族は、他の東国武士団とも縁戚関係で結ばれていました。 例えば北条時政の息子・北条義時も、有力御家人の一人・三浦義村も、母は伊東祐親の娘でした。つまり、曽我兄弟と北条義時、三浦義村は従兄弟同士で、北条義時にとっても、三浦義村にとっても、源頼朝は祖父の敵だったということになります。 源頼朝が中央集権化をアピールする場として催された「富士の巻狩り」。しかしこのイベントにこぞって参加した御家人たちの心の中には、東国武士団の自主独立の精神、そして限りない恩讐の念が潜んでいたのです。