- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

女性たちの視点から見る「天下人・豊臣」の栄枯盛衰

- Zue Maps 高野山 -

高野山・奥の院にある墓所の中でも、特に広い面積を占めているのが豊臣家墓所です。豊臣家と高野山との間には、深い関わりがありました。 しかし研究者によると、ここに立っている供養塔の多くは女性が立てたもの。つまり「豊臣家墓所」は、豊臣家の栄枯盛衰に翻弄された女性たちの、複雑な思いが繁栄されている場所だったのです。 豊臣家の女性たちの運命をたどり、彼女たちがなぜ、女人禁制の高野山にそれほどの思いをかけたのかを考えてみましょう。

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実は秀吉はいなかった?「豊臣家墓所」

豊臣家墓所は、世界遺産の「松平秀康及び同母霊屋」の少し先、参道の左側にあります。

奥の院(前田利家・まつ~御供所)

さすが天下人の一族だけあって、これまで見てきたどの墓所よりも大きく、たくさん立っている供養塔も、贅沢に間隔がとられています。 どれが誰の供養塔なのか、高野山大学の総合学術機構課長、木下浩良氏の調査結果をもとに見てみます。 左から数えて5番目の、少し奥まった場所に立っているのが豊臣秀吉の五輪塔です。しかし実はこれは、昭和に入ってから、政界人や軍人のグループによって建てられたもの。 秀吉は、本人が信仰の対象(豊国大明神)になったため、空海の近くで救済を待つのはおかしいということで、もともとは奥の院に供養塔は建てられなかったようです(おそらく、徳川将軍家の霊台が奥の院の外にあるのも同じ理由です)。 しかし日中戦争のさなかにあった昭和初期の政治家や軍人にとっては、そんなことはどうでもよかったようで、「朝鮮征伐をした秀吉は素晴らしい。その英霊が再び現れて、自分たちの中国征服も手伝ってほしい」という願いをこめて、秀吉以外の一族の供養塔が並んでいたこの墓所に、秀吉自身も追加することにしました(銘文にそのようなことが書かれています)。 というわけで、秀吉本人のことは置いておいて、秀吉の生存中から江戸初期にかけて立てられた、他の一族の供養塔を見てみましょう。

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天皇家の先祖となった「百姓娘・とも」

左端の小さめの供養塔は、秀吉の時代に立てられたようですが、銘文がなく誰のものかは分かりません。 左から2番目は、秀吉の姉、とも(瑞龍院・日秀尼)。夫は三好吉房で、百姓の出身でしたが、ともと結婚したことで大名になれた人物です。さらに二人の長男、豊臣秀次は関白にまでのぼりつめました。 しかし豊臣秀次の切腹という事件をきっかけに、二人の運命も反転します。 次男の豊臣秀勝も、文禄の役の陣中で、24歳で病死しました。しかしその娘、豊臣完子が公卿・九条家の正室になったことがきっかけで、その血筋は九条家に受け継がれていきます。 昭和天皇の母、貞明皇后はこの九条家の出身(旧名・九条節子)。つまりともは、現在の天皇家の先祖の一人だったのです。

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夫婦で弥勒仏を待つことにした「豊臣秀長の妻・慈雲院」

ともの右側(左から3番目)は、「大姉」と刻まれていることから女性の供養塔であることは分かりますが、誰のものかははっきりしていません。 その右側(左から4番目・「豊臣秀吉」の左手前)は、秀吉の弟、豊臣秀長の妻(慈雲院)。さらにその右側(左から5番目・「豊臣秀吉」の右手前)が豊臣秀長です。 豊臣秀長は、秀吉の紀州征伐で副将をつとめた人物。その主なターゲットになったのが、高野山と同じ真言密教の根来寺で、徹底的に破壊されて壊滅しました。さらに高野山も攻撃の対象となりますが、降伏して難を逃れます。 その後秀長は、紀伊(和歌山県)、大和(奈良県)、和泉(大阪府南部)など110万石以上を支配しました。 高野山を含め、寺院などの勢力が強く支配が難しい地域を任されたことになりますが、秀長の統治能力は高く、うまく治めたと言われます。 この秀長の五輪塔と、隣の妻・慈雲院の五輪塔は、秀長が亡くなった1591年に、慈雲院がセットで立てたと見られています。つまり慈雲院は生前から、夫と隣り合って弥勒仏を待つ準備をしていたのです。

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女人禁制の地に寺を作ってもらった「天下人の母・なか」

さらにその右側(左から6番目。秀吉の分は数えていません)は、秀吉の母・大政所(なか)の供養塔です。この大政所と高野山との関係は非常に深く、現在の金剛峯寺(真言宗座主の住坊などがある寺院)は、秀吉が大政所のために建てた剃髪寺(後に青巌寺)がもとになっています。 この供養塔は1587年、大政所の生前に建てられたと記されています。

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キリスト教と仏教の間で揺れた「宇喜多マリア・豪姫」

左から7番目の五輪塔は、天正年間、つまり1592年に文禄の役が始まるより前に立てられたことが分かっていますが、誰のものかははっきりしていません。 左から8番目、つまり石垣にほぼ隣接して立っているのは、前田利家の娘、豪姫の供養塔です。幼い頃から秀吉の養女になったため、一族に加えられています。宇喜多秀家の妻となり、宇喜多家が豊臣家の親戚として繁栄する要になりますが、そのために関ヶ原の戦いでは西軍の主力になってしまい、宇喜多秀家は八丈島に流されます。 その後豪姫は内藤如安の妹、内藤ジュリアに出会います。内藤ジュリアは兄とともに一生をキリスト教に捧げた女性で、熱心に布教活動を行っていました。そのため豪姫もキリスト教に入信し、洗礼名マリアとなります。 この供養塔は豪姫の生前である1615年に立てられたもの。つまりキリシタンでありながら、仏教の生前供養も行ったということになります。この時代、キリスト教と仏教を(少なくとも形式上は)同時に信仰した人は少なくありませんが、豪姫の場合、母のまつ(前田利家の妻)の影響が大きかったのではないかと言われています。 豪姫までで、(秀吉を除いて)きれいに一列に並んでいる8基の供養塔は終わりです。今度は石垣沿いに並んでいる、少し手前の2基を見てみましょう。

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「淀殿の子・鶴松」を隣に置いた「北政所・おね」の思いとは?

豪姫から少し距離をおいて立っている供養塔は、3歳で亡くなった秀吉の長男、鶴松です。鶴松が亡くなった翌年の1592年、鶴松の傅役だった浅野長政が立てたもの。しかしこの頃、幼児の供養塔が立てられるのは異例のことでした。 そのすぐ右隣は、秀吉の妻の供養塔で、正室の北政所(高台院・ねね)である可能性が高いといいます。側室の淀殿が鶴松を産んだ1589年に立てられています。自分が産んだわけではないけれど、秀吉が切望していた男子ができた、というタイミングで、自分の供養塔を立てたのです。 そのとき北政所は、どんな気持ちで、浄土に行く準備を始めたのでしょうか。 そしてその3年後、すぐ隣に鶴松の供養塔が立ったときは、何を感じていたのでしょうか。浅野長政が鶴松の供養塔を立てたのも、もしかしたら北政所の意向によるものだったかも知れません。 実際には、北政所は自分の供養塔を立ててから35年も生きました。秀吉死後の豊臣家と徳川家の対立では、やや徳川寄りの立場をとります。 その結果、豊臣家は滅亡したものの、秀吉の最初の名字である「木下」は、北政所の甥・木下利房によって、幕末まで続く備中足守藩の大名家として受け継がれました。

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なぜ豊臣家墓所では女性の存在が目立つのか?

こう見てみると、この豊臣家墓所にある供養塔は、(昭和の秀吉は無視するとして)ほとんどが女性の供養塔か、女性の意向により立てられたということが分かります。 秀吉が異例の出世を遂げたことで、思わぬ境遇を得た豊臣一族の女性たち。しかし彼女たちは、息子の切腹、夫の島流し、側室との確執、そして一族の滅亡という悲劇に直面していくことになりました。 当時の高野山は女人禁制であり、女性は生身のままでは、女人堂より内側に入ることができませんでした。それでも彼女たちは、ここに自らの、または親しい人の供養塔を次々と立てさせました。 戦乱と権力闘争に巻き込まれた豊臣家の女性たちは、どんな思いをこめて、高野山に供養塔を立てたのでしょうか? それを書き残した文書などは残っていないと思われますが、当時の女性たちにとって、仏教がどういう存在だったのかを考えてみましょう。

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女性は成仏できない?「仏教の性差別」五障と変成男子

日本で最初に出家をしたのは女性だったと伝わっています。日本の仏教は、当初は女性差別の概念はなかったようです。 しかし奈良時代から近世にかけて、「穢れ」の概念や儒教思想、中国でつくられた偽経「血盆経(女性は月経や出産の出血の穢れにより、血の池地獄に堕ちるというもの)」の影響を受け、女性を蔑視する内容になっていった、ということがよく指摘されます。 また法華経には、「女性は梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏陀のどれにもなれない5つの障害、五障(ごしょう)があるので、成仏するためにはいったん男性にならないといけない」と解釈されている「変成男子(へんじょうなんし)」というシーンがあります。 「五障」や「変成男子」は、大乗仏教を代表する経典である法華経が「女性はそのままでは成仏できない劣った存在だ」ということを説いていると解釈されてきました。釈迦はそんなことを言っていなかったのに、その後の仏教がヒンドゥー教の影響を受けて性差別をするようになった、とも言われます。 しかし一方で、中世の仏教において、女性は菩薩の化身であり、利他行を主導する役割があると信じられていた、ともいいます。最澄が「女性が成仏できないなんていうのは誤りだ」と説いたとか、日蓮が「他の経典は女性を差別しているが、法華経だけは女性も成仏できるとしている」と説いた、という話もあります。 いったい仏教(特に法華経)は、女性を差別しているのでしょうか?差別していないのでしょうか?混乱してきますね。 こういった矛盾は、仏教ならではの「対機説法」、つまり相手によって説く内容を変える手法から来ていたようです。僧侶たちは、相手が男性か女性かによって、特に女性についてのテーマでは、まったく違う内容を説いていました。 法華経も抽象的な表現をしているので、言葉の定義次第で、どんな内容にも解釈できるのです。 おそらく、男性の若い修行僧に対しては、女性は色々と問題があるから遠ざけろと説き、女性たちに対しては、信じれば男女の区別なく救済される、あるいは女性の方が積極的に利他を行うことで、男性の救済を主導すべきだと説いていたのでしょう。 「仏教が女性を激しく差別した」と言われる中世後期から近世にかけても、一般的に、女性たちは男性よりも熱心に仏教を信仰し、各宗派の教団が発展する上で大きな役割を果たしていました。 「女人禁制の高野山」についても、女性たちは男性とは違う視点から信仰し、熱心に供養塔を立てさせたのではないでしょうか。