西洋哲学と密教-スピノザ、キェルケゴール、ニーチェと空海-

即身成仏を目指す「三密の修行」とは -パスカル哲学との共通点-のページでは、空海の思想とパスカル哲学に相通じるものがあることを説明しました。 19世紀までの西洋哲学では、仏教に対する評価はおおむねネガティブです。ショーペンハウアーの評価はポジティブなところもありますが、それは仏教の厭世哲学としての側面に対する見方でした。彼らにとっての仏教は、インドの原始仏教がいくつかのフィルターを通して伝わったものだったのです。 そのため、空海の思想が彼らに影響を与えたことは考えにくいものの、思索の方向性としては共通点が見られる哲学者はパスカル以外にもいます。

スピノザと空海

17世紀オランダの哲学者、バールーフ・デ・スピノザは、「神は無限である」ということを広い視点で見つめ直しました。 スピノザの思想は「汎神論」とも言われますが、「無神論」のように言われることもありました。彼の哲学はデカルトを継承し、宗教の非合理性を排し、科学の立場から宗教を理解しようとしていたためです。 その結果、彼が行き着いたのは「神即自然 (deus sive natura) 」という言葉です。この場合の「自然」とはすべての物質や現象を意味します。そうなると、般若心経の「空即是色」とそれほど意味は変わりません。 「虚空=無」として考えれば、スピノザは確かに無神論者ということになります。しかし実際には、人格を持った人のような存在として理解されていたキリスト教の神を、空海の言う「虚空」のようなものに変えてしまった、と解釈するほうが自然かも知れません。

キェルケゴールと空海

19世紀デンマークの哲学者、セーレン・キェルケゴールは、どちらかというとデカルトよりもパスカルの系統を受け継いでいます。 キェルケゴールはヘーゲルの弁証法は、何もかも論理的・体系的にとらえようとしすぎている、と批判しました。そうした理論では捉えられない、「自我」という常にゆらいでいる存在があると主張します。 その「自我」は、単独では存在することができず、何らかの作用という形で存在します。だから、常に不安定な状態なのです。しかし、「神」と関係することによってのみ、均衡を得られるといいます。それができない状態を「絶望」と呼びます。 この「絶望」は様々な形をとり、「別の自分であることを空想する」「世間に埋没することで自己を忘れる」「どうせどんな自分になろうとしても同じだと思う」などがありますが、形はどうであれ、「あるべき自己」から逃避することをキェルケゴールは「罪」と呼びます。 この「罪」から逃れるには、まず「罪」を直視し、人の本質である「不安」を獲得することが必要で、それによって「自我」を「信仰」に同化させ、「罪」を脱し救済されると考えました。 「自我」が「信仰」を選びそれを消化するということではありません。「自我」の側から「信仰」に同化していくのです。 結論を一言でいうと、「信じる者は救われる。つべこべ言わないでに神を信仰せよ」ということになってしまいます。キリスト教徒でない限り、なかなか受け入れがたい哲学ですよね。 しかし、「自我はそれ自体では存在せず、他との関係性としてのみ実在する」「その自我とは非常にもろく不安定なものなのに、多くの人がそうでないと信じて生きている結果、さまざまな問題が生まれている」「そうした問題をもたらしている固定観念を捨て去って、自分が本来結びついているもの(神)との一体化を目指すことで救済が得られる」といった考え方には、キリスト教の枠内に留まらない普遍性があります。 近代化の中で、多くの市民の間で「自我」が目覚め、中世のように無批判に宗教を信じることができなくなった19世紀。 そんな時代だったからこそ、キェルケゴールはその「自我」がいかにもろく危ういものかを理解し、その幻影を作っている欺瞞やしがらみから脱却することで、「真の自由」を獲得しようとしたのではないでしょうか。

ニーチェと空海

最後は19世紀後半のドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ。 「神は死んだ」のあの人です。 彼はキェルケゴールとは正反対に、キリスト教を「ルサンチマン」という煩悩がもたらす「否定の道徳」として徹底的に批判しました。 一方でニーチェは、古代インド哲学を尊敬し、特に仏教については「仏教には、問題の本質を客観的に冷静に考える伝統がある。歴史上唯一の、論理的な思考をしている宗教だ」「キリスト教は、敗者の不満を土台としており、絶対に目標にはたどり着けない。しかし仏教は、絶対的なものを目指して突き進むことはせず、ありのままの状態を大切にしている」と絶賛していました。 ところが他の著作では、「神と一体化する欲求は、仏教徒が無を求める、つまり涅槃に没入することと同じだ」と書いています。 この場合の「無」というのは「苦しみが無い状態」と同じような意味で使っているようです。つまりニーチェは、キリスト教と対比する時は仏教を絶賛する一方で、仏教が解脱を目指して厳しい修行を行っていることを批判してもいるのです。 ニーチェの念頭にあったのはおそらく釈迦の初期仏教ですが、空海の「三密の修行」なども否定の対象だったでしょう。 ところが彼は、このように自己を含めたすべてを精神に従わせようとする方向性を「力への意志」と呼んでいったん批判した上で、そういった問題を克服した上で、今度は「力への意志」の肯定に至るべきだといいます。 ニーチェの哲学は、同じものを肯定したかと思えば批判し、その後また肯定したりする、矛盾に満ちた思想です。 そのため、「力への意志」や「超人」という言葉、弱者を蔑視し強者を賛美する文章などが切り取られ、都合よく解釈されて、ナチスの独裁やユダヤ人弾圧、障害者施設の殺傷事件につながったこともあります。 しかしそういったことを書いていたニーチェ本人は、かつての仲間たちと決別し、勤めていた大学でも理解されず孤立し、(おそらく脳梅毒が主な原因で)仕事も失い、頭痛と徐々に進行する精神の病に悩まされていた「敗者」であり「弱者」でした。 いったい、彼は何が言いたかったのでしょうか? そして、そのような「精神障害者」が書いた、「矛盾」に満ちた「危険思想」が、なぜ、その後の哲学の主流となった実存主義、構造主義、ポスト構造主義、ポストモダニズムのさきがけとして評価されたのでしょうか? ニーチェは、「ニヒリズム(虚無主義)」を標榜したことでも知られています。しかし彼の「ニヒリズム」の定義は場合によって変化します。ニーチェはニヒリズムの悪い点をさんざん挙げた上で(その中にはキリスト教も仏教も含まれます)、それでも自分はニヒリストだ、と宣言します。 彼が肯定する場合の「虚無主義」とは、「世界は無であり、何をやっても良くはならない。だから何もしないほうがいい」という一般的な虚無主義とは違い、「世界は無であり、何をやっても良くはならない。しかしだからこそ、いま生きているこの瞬間を高めよう」というポジティブな虚無主義です。 なぜ、そんな変なロジックになるのでしょうか。 ニーチェにとっての「真理」とは、決まった形を持った普遍の「存在」ではなく、「力への意志」が常に生み出し続けるといいます。 そして、この世界は無限の時間の中で、物質が形を変え続けることで成り立っている(永劫回帰)が、それを悲観するのではなく、常に今の瞬間が最上のものだとして肯定するべきだ、と主張します。 人間はそういったことを繰り返すことによって「自己」を「超克」するべきだ、といいます。この「自己超克」をできた人が「超人」です。 ニーチェの「超人」という言葉は有名ですが、「万能の神のような人」という意味ではなく、「従来の自己のしがらみから脱却できた人」というような意味だったのですね。 あれ?そういうことであれば、空海もキェルケゴールも、似たようなことを言っていませんでしたっけ?

相容れない哲学の共通点

キリスト教の「神」への絶対的な信仰でこそ救われると主張するキェルケゴールと、そのキリスト教を目の敵にするニーチェの哲学は、まったく相容れないように見えます。 ところが、共通する点もあるのです。 それは「自己」を徹底的に見つめ、固定化した「自己」の解釈からの解放を訴え、論理ではとらえられないものと一体化させた上で、最終的には自己肯定に至ることを目指している点です。 この共通点は、空海の「虚空の哲学」との共通点でもあります。 ニーチェも空海も、世界のあり方に「縁起」や「輪廻転生」のような原則があることは認めながらも、「彼岸」や「来世」への逃避を否定し、現世の中でこそ救済を実現すべきだと主張していました。 熱心なキリスト教信者に見えるキェルケゴールも、実は、現実から逃避する手段として宗教を利用したそれまでのキリスト教を否定しており、現実を徹底的に直視した上で、最後に「神との一体化」にいきつくべきだとしています。 デカルト、パスカル、スピノザ、キェルケゴール、ニーチェ、そして空海。彼らは、特に宗教的な観点から見ると、全く違うことを語っています。しかし、「自己」と「現世」をどう見つめるか、という根本的なところについては、方向性にそれほどの違いはなかったのではないでしょうか。 次のページ即身成仏の最終段階-現世に執着した空海が行き着いた「利他」-