- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

西洋哲学で考える「即身成仏」

- Zue Maps 高野山 -

宗教都市・高野山で生み出された真言密教には、どのような哲学があるのでしょうか。 このページでは、最も重要な概念のひとつ「即身成仏」について、西洋哲学との比較で考えてみます。

PAGE NAVI

唯識派とデカルト哲学

「即身成仏」の第二段階の話は、科学からは少し飛躍します。しかし科学者でもあった空海は、そのことを拒否しませんでした。 この空海の飛躍について、論理的な思考を徹底的に追求した、近代ヨーロッパの哲学者たちの議論と対比してみましょう。 17世紀のフランス。一流の数学者でもあった哲学者、ルネ・デカルトは、「物事を証明するには、どんなことでもまずは疑ってみよう(方法的懐疑)」と考え、まず「すべての存在は虚偽ではないか」と疑いました。 次にデカルトは、「いやでも、すべてが虚偽だと疑っている、この自分自身の存在だけはけっして虚偽とはいえない」と考えました。つまり、「疑う」という行為を通して、自分という存在を証明することができたというのです。 これが1637年公刊の「方法序説」を代表する言葉、「我思う故に我在り」です。どことなく、唯識派の主張に似ていませんか。 デカルトは、理性によって真理を追求しようとしましたし、それが可能だと考えていました。唯識派も、「理性」に対して「智慧」という違う言葉を使ってはいますが、同じような主張をしていましたね。

PAGE NAVI

「空の科学者」パスカル

それから約半世紀後。同じフランスで、デカルトの考えを「不確実であり、なんの役にも立たない」と批判する哲学者が出てきました。1669年に「パンセ」を出版したブレーズ・パスカルです。 パスカルは、哲学者であると同時に、天才的な科学者として歴史に名前を残しています。空気の重さ、つまり大気圧について解明し、わたしたちが「空気の海」の底で生きている、ということを明らかにしたのです。台風の中心気圧を示す単位「ヘクトパスカル」も、この人の名前からとっています。他にも流体静力学の基本原理「パスカルの原理」が有名ですね。 哲学者としてのパスカルは、「パンセ」の中の「人間は考える葦である」のフレーズで知られています。「人間は弱い存在だが、考えるという行為によってなんとか生き延びてきたのだ。だから考えるという行為はとても大切なのだ」という意味で、デカルトの「我思う故に我在り」と同じような思想にも見えます。 しかしパスカルは一方で、「神」についても論理的に解明しようとするデカルトを厳しく批判しました。「神については理性で理解しようとしてはいけない。デカルトのように、いったん懐疑の対象にして証明するなんてありえない。心情ですべてを受け止めなければならない」というわけです。 「パンセ」には、「心情は、理性では計り知れない、それ自身の道理を持っている」というフレーズや、「理性を排除することも、理性だけしか認めないことも、どちらも行き過ぎだ」という言葉があります。 天才的な科学者であると同時に敬虔なクリスチャンでもあったパスカル。とても矛盾した存在です。 デカルトの思想は、その後の西洋哲学に(批判の的になりつつも)継承され、自然科学ではニュートン、ダーウィンなどが、政治学ではマルクスなどが受け継ぎました。パスカルではなく、デカルトの方向性が近代ヨーロッパの主流になったのです。それによって世界が大きく発展したのも事実です。 しかし、その発展に貢献した代表的な人物の一人、アインシュタインは、物質とエネルギーの関係を見つめた結果、デカルトとパスカルの間を揺れ動くようになりました。その迷いは、彼の「科学のない宗教は不完全。そして宗教のない科学にも欠陥がある」という言葉にも現れています。 その後、論理的思考を徹底することによる「発展」が、持続可能ではない幻想だったと考える人たちがさらに増えていきます。デカルトの方向性は行き詰まり、パスカルの方向性を見直すしかない、と考えられるようになってきたのです。 パスカルはこうも言いました。 「傲慢な人間たちよ、自分自身が矛盾に満ちていることを理解せよ。理性はあまりにも無能であり、本能はあまりにも愚かだ。しかし、このような愚かな存在から脱却しようと無限にもがき続けるのが、人間が人間であるということだ。そうやって自らの価値を見つけるしかないが、それは自分だけでは不可能だ。だから謙虚になって、神の言葉に耳を傾けなければならない」 「人間とは何か?それは無限と比べてみると虚無であり、しかし虚無に比べてみるとすべてだ。つまり無と全体の間を漂っている。しかもその両極からはとてつもなく隔たっているので、わたしたちはどんな虚無から生まれたのか、あるいはどんな無限に飲み込まれていくのか、どちらも知ることはできない」

PAGE NAVI

パスカルの信仰と「金胎不二」

このパスカルの哲学、いや信仰は、空海の思想、特に「金胎不二」に通じるところがあるように感じられませんか?  例えば、智慧と理性をできるだけ高めることで、真理を追求しようとしたこと、しかしその限界もはっきりと認識し、理性では捉えられない概念(空、虚空、仏、密、または神)に対する別のアプローチを模索したこと、そして互いに矛盾するその2つの方向性を、一体化させようとしたことでは、この2人の間には本質的な違いはなかったのではないかと思われます。 空海とパスカルの間には、つながる対象が「仏(あるいは大日如来)」なのか「神(あるいはイエス・キリスト)」なのか、という違いはあります。つながる方法も、空海が「一体化する」と表現したのに対し、パスカルは「受け止める」と表現しました。仏教とキリスト教の間には、深い溝があるのも確かです。 しかし、時代も場所も宗教も全く異なり、背景に相違点が多い2人だからこそ、それでも共通する部分から、思想の根本部分が見えてくるのではないでしょうか。 この2人は、科学と思想の両面で、大きな功績を残したことでも共通しています。科学者としてのパスカルが、「大気に圧がある」つまり「空が無でない」ということを科学的に証明し、今も使われている「大気の海(空海?)」のメカニズムを確立した、というのはただの偶然でしょうが・・・