即身成仏を目指す「三密の修行」とは-パスカル哲学との共通点-

空海の「即身成仏」-ミイラ化して生き続けることではなかった?-では即身成仏の第一段階について説明し、即身成仏と西洋哲学 -似た概念を別のアプローチで追求した?-では第二段階以降の科学からの飛躍について、デカルトやパスカルの視点から考えました。 「即身成仏」の第二段階として空海が推奨したのは、「三密の修行」です。これは、身体と精神の感覚を使って仏とつながろうとするもの。 信じる対象の呼び方は違っても、神とのつながりによって自分の存在に根拠を求めたパスカルの哲学にも相通じるものがあります。 ともに一流の科学者だった空海とパスカルが考えた、非科学的な宗教的行為。その共通点を考えます。

「三密」の修行とは

空海の「即身成仏」の第二段階も、信仰者としてのパスカルとの共通点がみられます。 空海は、人が第一段階で既に「成仏」しているにも関わらず、悩み苦しみ続けているのは、「既に成仏していること」に気づかないからだと説きました。つまり「成仏の第二段階」に進むために必要なことは、第一段階の成仏について気づくこと、ということになります。 そのために空海が推奨したのが、「三密」の修行です。もちろん、この「三密」は「密集・密接・密閉」の「3密」とは違います。 「三密」とは「身密」「口密」「意密」のこと。つまり身体の状態と、口にする言葉と、心情を整えるということです。具体的には、手に印を結び、口では真言を唱え、心では大日如来の姿を思い浮かべます。身体と口、心の動きを通して仏を受け止めれば、成仏の第二段階に進むことができると言うのです。 確かに、自らを非日常的な状態において、「"色 = 虚空"」とか「E=mc²」とか、なにか壮大なことに思いを馳せているとと、日常生活や人間関係の些細なことで悩むのが馬鹿らしくも思えてきます。つまり「虚空とは何か」がはっきりとは分からなくても、ある程度追求するだけで、一時的にではあっても「煩悩」をコントロールできるのです。 それまでの仏教では、身体や口や心情は、煩悩のもとであるとして、「三業」と否定的に呼んでいました。しかし空海は、この3つでさえも「仏」そのものなのだから、肯定的に活用するべきだと言います。この場合の「密」というのは、理性では解釈できない存在という意味です。

「三密」の修行とパスカル

パスカルは、「イエス・キリストを知る者は、すべてについての根拠を得る」と言っていました。キリストを通して神とつながることによって、人間の存在が根拠を得られ、悩みや不安から解放されるということです。 身体の動きや口にする言葉、一体化する対象を呼ぶ固有名詞は全く違うものの、行動の本質や目的とするところは、空海と同じだったのではないでしょうか。 三密の修行をそのまま実践するのは抵抗感がある人でも、信仰の対象が何であるにせよ、その意義については理解できるのではないかと思います。 次のページ西洋哲学と密教-スピノザ、キェルケゴール、ニーチェと空海-