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高野山自身も悪行を?「蛇柳供養塔」が暗示する慚愧の念

- Zue Maps 高野山 -

高野山・奥の院の参道から少し外れたところに、「蛇柳供養塔」と呼ばれる供養塔が立っています。この供養塔には、高野山の僧侶たち自身もさまざまな「業」を背負ってきたことを示す、ある歴史が秘められています。

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蛇柳供養塔(蛇柳跡)と空海の大蛇退治

蛇柳供養塔は、奥の院の入り口にあたる一の橋と、中の橋との間、ちょうど中間ぐらいの場所にあります。もっとも参道沿いではなく、川沿いの道に近い所です。

奥の院(手水舎~蛇柳跡)

伝説によると、ここにはかつて大蛇が住んでいて、人々に災いをもたらしていました。この大蛇を、空海が密教の力を使い、柳に封印しました。 この伝説にはいくつかバージョンがあって、「空海が大蛇を山奥に追い払って、大蛇が住んでいた場所に柳を植えた」とか、「入定後の弘法大師が数取地蔵に呼ばれて、わざわざ御廟から出てきて箒で毒蛇を退治した」という話もあります。 開創以前の高野山は、日本古来の山岳信仰の聖地だったと考えられています。その中でも奥の院のあたりは、ほとんど人が足を踏み入れない「神の領域」だったのでしょう。空海以降、山岳信仰と密教が結びついて「修験道」がつくられていきますが、その過程で排除された「神」の一つがこの大蛇だったのかもしれません。 ジャヤナギという植物は高野山に存在します。柳の一種ですが、雌株しかないことと、風が吹くと枝が折れることが特徴です。 ジャヤナギは大陸由来であり、空海の時代に日本に持ち込まれた可能性もあるといいます。空海がここにジャヤナギを植えたことが伝説化したとも考えられます。仮にそうだとすると、ジャヤナギの植樹は、もしかしたら空海自身による、「大蛇の居場所を奪う」という業との向き合い方だったのかも知れません。

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蛇柳は石子詰めの処刑場だった?

ところでこの「蛇柳」という場所については、ショッキングな話が記録されています。 近世にいたるまで、「石子詰め(石籠詰め)」という残酷な方法で処刑が行われていた場所だというのです。 「石子詰め」は、「罪人」を生き埋めにし、その周囲に小石を入れ、石の重みで圧死させる処刑方法です。世俗権力の判決にのっとった刑罰ではなく、寺院として独自に行った私刑のひとつです。出家の組織が聖域で行う処刑なので、血が流れないようにするために、このような方法がとられたといいます。

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「義人・戸谷新右衛門」の処刑

「石子詰め」で処刑された人としては、江戸時代中期(18世紀前半)に起きた「高野桝一揆」のリーダー、戸谷新右衛門が知られています。当時の高野山は、2600ケ村、17万石相当の寺領を持つ領主でもありました。当然、庶民から年貢を取り立てるわけですが、幕府が制定した桝よりも大きな桝で計量してより多くの年貢を取り立てたり、別途に付加税を取り立てたことから、領民は不満をつのらせていました。 庄屋の戸谷新右衛門は、領民を代表して江戸の寺社奉行に「高野山の寺院が不正な方法で年貢を取り立てている」と直訴します。奉行は訴えを認め、不正な桝を使わないよう、そして付加税も取り立てないよう、寺院に指示を下しました。 戸谷新右衛門は、直訴をしたことが罪とされて3年間牢に入ります。その後幕府からは赦免されて故郷に帰ってきましたが、その後、新右衛門は「高野山の蛇柳で石子詰めにされた」と伝わっているのです。 他にも、陰謀を企てた僧侶を見せしめとして石子詰めにしたという話も伝わっています。高野山での石子詰めの最後の記録は、宝蔵から千両を盗んだ罪人に対する処刑で、明治維新の8年前に行われたといいます。 この「蛇柳供養塔」が立っている場所は、「蛇柳跡」とも呼ばれます。ここが、刑場としての蛇柳があった場所だとすると、供養の対象は空海が追い払った蛇神というよりも、「石子詰め」のリンチの犠牲者たちだった、ということになります。

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過去の「悪行」をあえて伝え続けてきた高野山

これらの記録、伝承がどこまでの事実を伝えているかは分かりませんが、高野山自身も、以下のように自分たちの歴史を伝えてきました。

『江戸時代は享保7年(1722)6月19日、高野山の蛇柳と呼ばれる場所で、鬼神も泣くと恐れられた石子詰(いしこづめ)の刑が行なわれたといいます。』

生産能力を向上させて庶民の生活を良くしたり、世俗権力の対立を解消させるなど、現世にも限りない「利他」をもたらしてきた高野山。しかし一方で、空海の後継者を名乗った人たちの中には、庶民から重税を取り立てたり、抵抗者を残酷な方法で殺害する人たちもいたということになります。 どんな組織でも、自分が属する組織の過去の悪行はなかったことにしたい、という人がいる一方で、それをあえて直視し、伝え続けることで戒めにしたい、という人もいます。 この「蛇柳供養塔」や「よもやま記」の記述は、その後者の人たちが、大切に残し続けてきたのでしょうか。