奥の院の見どころを徹底解説-詳細地図・高野山と武将たちとの関わり-

高野山の東端にある奥の院は、「空海の即身成仏の地」弘法大師御廟に向かう参道沿いに形成された「この世の浄土」です。 樹齢1000年を超える杉や高野槙の巨木に囲まれた並木道。その左右に、20万以上の墓所、供養塔、慰霊塔が立ち並んでいます。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて立てられたものも多く、有名な戦国武将の供養塔も少なくありません。 史跡としての重要性はもちろん、歴史上の人物たちに思いを馳せることができる場所、さらには日本を代表するパワースポットの一つとしても、人気を集めています。

奥の院(全域)

奥の院とは

高野山の「奥の院(おくのいん)」は、「奥之院」「奥ノ院」とも表記します。「奥の院」とは、寺院の本堂の裏手(奥)にあり、そのお寺の開祖などの像が安置されているお堂のこと。 神社の「奥宮(おくみや)」のことを「奥の院」と呼ぶこともあります。「院」は本来は寺院の建物に使う言葉ですが、昔は神社も寺も一緒になっていたので(神仏習合)、そう呼ばれたのでしょう。 高野山の奥の院も、本来は、開祖である空海を祀る「弘法大師御廟」のことを意味します。しかし空海の入定から86年後の921年、朝廷から「弘法大師」の諡号が贈られ、入定伝説が広まった頃から、奥の院は「開祖を祀る建物」というだけに留まらない、特別な意味を持ち始めます。 現在、高野山奥の院といえば、一の橋から弘法大師御廟までの2キロメートルの参道にそった広大なエリアを意味します。歴史に名を刻んださまざまな人物、特に戦国武将の墓所や供養塔が集まる観光地としても人気を集めています。 そのうち、木造霊屋が残る「上杉謙信霊屋」と「佐竹義重霊屋」、石造霊屋の「松平秀康及び同母霊屋」、そして経典の収蔵庫として建てられた「金剛峯寺奥院経蔵」が世界遺産の登録資産となっています。

奥の院の歴史

奥の院の歴史については、以下のページにまとめてあります。

奥の院ルート案内① (一の橋~平敦盛)

ここからは、戦国武将を中心に、歴史に名を刻んだ人物たちや、歴史上の戦乱や災害の犠牲になった人たちの供養塔を巡りながら、弘法大師御廟を目指すルートを、地図上でご案内します。

奥の院の地図(一の橋~中の橋)

現地の案内地図や標柱には、供養塔の個人名が書かれていることもありますが、多くは「○○家墓所」と表記されています。そのほとんどは江戸時代の大名家。歴代の藩祖や一族に混ざって、彼らの藩祖である戦国武将の供養塔も入っています。しかし、どれが誰のものかはっきりとは書かれていなかったり、同じ大名家の墓所がいくつも点在したりしているので、お目当ての人物を見つけるのに難儀することも少なくありません。 Zue Mapsでは、木下浩良氏など専門家の調査結果などを参考に、その墓所で最も有名な武将の個人名を表記しています(これといった人物がいない場合は○○家のままです)。なお、現代の企業が先輩たちのために立てた供養塔も混ざっています。 最初は、「浄土への入り口」とも言われた一の橋を渡ってすぐのエリアです。

奥の院(一の橋~平敦盛)

このエリアで最も有名な戦国武将といえば、中国地方の覇者・毛利元就の後継者で、長州藩の藩祖になった毛利輝元でしょうか。しかし彼は、ちょっと分かりにくいところに隠れています。 見つけやすいのは、源平合戦(治承・寿永の乱)の時代の人たちです。

浄土への入り口「一の橋」

高野山の東部、「一の橋口」のバス停の辺りから、清浄心院と宝善院の間を抜けていくと、奥の院の入り口「一の橋(いちのはし)」が現れます。

一の橋は正式には「大渡橋(おおばし)」と呼ばれます。「大橋」と書かれることもあります。日光東照宮の「神橋」、立山・芦峅寺の「布橋」と並んで「日本三霊橋」の一つに数えられます。 今はこの先にある「中の橋」から奥の院に入る人も少なくありませんが、奥の院を参拝するルートとしては、こちらが正しい入り口になります。 ここから入ると、なんと空海自らがお出迎えして、弘法大師御廟まで案内してくれるというのです。「西方極楽浄土」に案内してくれる阿弥陀如来みたいですね。 阿弥陀信仰は本来は別の宗派のものですが、真言密教でも平安末期に大日如来と阿弥陀如来は同じだ、という主張が出てきたので、その辺りも関係しているかもしれません。空海が案内してくれるのは、はるか彼方の西方極楽浄土ではなく、歩いて行ける弘法大師御廟ですが、浄土のような場所であることに変わりはないのです。 そのため正式な参拝では、一の橋を渡る前に、まず空海にご挨拶をします(深く一礼します)。 参拝ではなく、戦国武将たちの慰霊碑めぐりが目的だったとしても、こちらから奥の院に入るほうが、色んな武将に出会いやすいです。 ここを流れる「御殿(おど)川」は、高野山を西から東へと横断し、有田川へと続いている川。「三途の川」に見立てられているのは、もう少し先で渡る支流になります。

司馬遼太郎文学碑

一の橋から少し進むと、2008年に建立された司馬遼太郎の文学碑があります。

刻まれているのは、司馬遼太郎が高野山を訪れた時のことを書いたエッセイの一節です。 「司馬遼太郎文学碑」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 大作家の悩める青年時代を伝える「司馬遼太郎文学碑」

伊達政宗の後継者たち

司馬遼太郎文学碑の北には、伊達家(仙台・宇和島)や加賀前田家の墓所があります。仙台伊達家も加賀前田家も奥の院にいくつか墓所がありますが、ここには有名な戦国武将(伊達政宗・前田利家)の息子たちや孫の供養塔があります。

まずは、「独眼竜」伊達政宗の才能をさまざまな形で受け継いだ、息子と孫たちです。 鳥居と供養塔のセットが3つ並んでいて、中央には「奥州仙台伊達家墓所」、右には「伊予宇和島伊達家墓所」と書かれた標柱が立っています。 一番左側のセットから見ていきましょう。 ここの供養塔は、仙台藩の2代目、伊達忠宗(だて ただむね)のものです。伊達忠宗は、「独眼竜」伊達政宗の次男です。存在感が大きすぎる父がなかなか家督を譲ってくれなかったため苦労しましたが、まだ幕藩体制が不安定だった時期に、大藩・仙台藩を何とか維持し、領内を発展させたことで「守成の名君」とも言われます。 余った米を藩が農民から買い上げ、江戸で売って利益を分配する(つまり藩が商社のようなことをする)「買米制」により、農民のモチベーションを上げて生産力を高めたり、公共事業(寺社建築)で雇用創出を行うなど、庶民の生活向上にも尽力した殿様だったようです。 「明暦の大火」の際、家臣団を率いて素早く江戸城にかけつけ、警戒活動を行ったことでも評価されています。 中央のセットは、伊達忠宗の息子で、仙台藩の3代目藩主になった伊達綱宗(だて つなむね)です。伊達綱宗は父の伊達忠宗とは対照的に、政治に興味を持たず自堕落な生活を続けたことで、江戸時代の3大お家騒動の1つ、「伊達騒動」の発端を作ってしまったことで知られています。 仙台藩内の内部対立に幕府の介入を招き、21歳で隠居させられてしまったのです(綱宗隠居事件)。その後、内部抗争は更に激しくなり、幕府の大老での刃傷事件を起こします(寛文事件)。更には将軍・徳川綱吉によって仙台藩が取り潰されそうになり、それを防ぐために綱宗の後継者、伊達綱村(だて つなむら)までもが隠居を強いられることになりました(綱村隠居事件)。 隠居後も51年生きながらも、仙台藩最大の危機に対してなすすべがなかった伊達綱宗。しかし一方で、芸術を積極的に保護したことで知られ、自らも優れた絵画を残したアーティストでした。 そういう意味では、「わび・さび」の美意識を日本に浸透させた東山文化の推進者、足利義政にも通じるところがある人物です。 右側の「神社・五輪塔セット」の前には、「伊予宇和島伊達家墓所」と書かれた標柱が立っています。 これは宇和島伊達藩の初代藩主、伊達秀宗の供養塔です。伊達秀宗は伊達忠宗の兄で、最初は御曹司として育てられました。その後、元服時に豊臣秀吉から一字をもらって秀宗と名乗ったり、豊臣秀頼の小姓になるなど、豊臣家に近い存在になります。そのため徳川の世になると、父・政宗は秀宗を仙台藩ではなく、支藩を立ててそれを継がせることにしました。 その後、一時は父・政宗と対立し、取り潰しの危機にも直面しますが、老中・土井利勝の仲介で和解。その後は父と良好な関係を築きました。弟の忠宗よりも、秀宗のほうが性格は政宗に似ていたといいます。 宇和島藩は、幕末の伊達宗城がよく知られています。

前田利常供養塔

奥の院にはいくつか前田家の墓所がありますが、ここには前田利家の四男・前田利常の供養塔があります。

前田利常は、兄・利長の後を継いで、加賀藩の第二代当主になりました。 大坂冬の陣には、徳川方最大規模となる2万の兵を率いて参戦。真田丸の攻略に失敗し、大きな被害を受けました。夏の陣では武功を上げ、その後も徳川将軍家からの警戒心を高い政治力でかわし、加賀120万石を守りきりました。

曾我兄弟供養塔

18町石の近くに、鎌倉時代初期の「曾我兄弟の仇討ち」で知られる曾我祐成と曾我時致の供養塔があります。仇討ちの原因となった彼らの父、河津祐泰の供養塔もあります。

個人の復讐劇とされる「曾我兄弟の仇討ち」の背景には、さまざまな権力闘争の連鎖がありました。掘り下げていくと、東国武士たちにとって「鎌倉殿」がどういう存在だったのかが浮かび上がってきます。 「曾我兄弟の仇討ち」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「曾我兄弟の仇討ち」源氏将軍家を滅ぼした復讐劇とは

法明

曾我兄弟の供養塔から少し参道を進むと、「法明上人供養塔」があります。

法明(ほうみょう)は鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した僧侶で、高野山で修行した後に「融通念仏宗」という宗派の中興の祖とされています。 「ビジュアル系プロデューサー」法明

島津家墓所(島津綱貴ほか)

さらに参道を進むと、島津家の墓所があります。 高野山には島津家墓所が3つありますが、ここには江戸中期の藩主たちが集まっています。

ここに供養塔がある藩主たちのうち、「第3代藩主・島津綱貴」については、以下のページにまとめてあります。 江戸中期の薩摩藩主たち(島津綱貴ほか)

池田綱政

島津家墓所の次は「岡山池田家墓所」。中国地方の大藩のひとつ、岡山藩(31万石)の藩主たちの墓所です。

この「岡山池田家墓所」には、大きな謎があります。名君と称えられる初代藩主、池田光政の供養塔が見当たらないのです。 いったいどういう背景があったのか、池田光政の人生を探ってみると、江戸時代から先鋭化しはじめた「仏教VS儒教」の対立の構図が見えてきます。 仏教と儒教が対立?「名君」が入らなかった池田家墓所

森忠政供養塔

次は、岡山藩の北にあった美作・津山藩の初代藩主、森忠政の墓所をのぞいてみましょう。 戦乱がもたらした悲劇と悪行、栄光のどれもを背負った武将の一人です。

森忠政は、織田信長に仕えた森可成の末っ子です。森可成とその息子たちは、信長の特別な寵愛を受けましたが、森忠政をのぞくほぼ全員が、悲劇の死を遂げました。 父・森可成は、織田信長から滋賀の宇佐山城を任されていましたが、朝倉・浅井連合軍3万の攻撃を受けて討ち死にしました。このことが、織田信長の比叡山焼き討ちにつながっていきます。 森忠政の長兄・森可隆も、浅井との戦いで若くして戦死。他の3人の兄、森蘭丸、森坊丸、森力丸は信長の小姓として仕えていましたが、本能寺の変で戦死します。 一方、森家を継いだ次兄・森長可は、猛将として活躍しましたが、小牧・長久手の戦いで徳川の家臣・井伊直政の部隊に討ち取られました。 その結果、ただ一人残った末っ子の忠政が森家を継ぐことになったのです。 こうした経緯を経て殿様になった森忠政は、かつての敵対者や重税に反対する領民を磔したり、重臣を暗殺したりと、悪評も多く伝わっています。 一方で、豊臣の世から徳川の世へと移り変わる中、時勢をうまく乗り切り、美作・津山藩の初代藩主になりました。

地蔵不動尊

参道をさらに進むと、右側に「地蔵不動尊(地蔵不動)」と呼ばれるお地蔵様があります。

「地蔵不動尊」についての詳細や、高野山と地蔵信仰との関係については、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(地蔵不動尊)

毛利輝元

地蔵不動尊の近くに、左(山側)に入れる小道があります。入っていくと、「萩毛利家墓所」があります。長州藩の代々の藩主の供養塔がありますが、その中で特に有名なのは、藩祖の毛利輝元です。 脇役としてではありますが、戦国時代の締めくくりで大きな役割を果たした人物です。

毛利元就、吉川元春、小早川隆景など一族の名将たちに比べて存在感がうすく、凡将とさえ言われる毛利輝元。 しかし実際の毛利輝元は、歴史上の節々で、きわめて大きな役割を果たしていました。詳細は、以下のページにまとめてあります。 信長に天下をとらせた「決められない当主」毛利輝元秀吉に天下をとらせた「決められない当主」毛利輝元家康に天下をとらせた「決められない当主」毛利輝元「決められない政治」は毛利元就の生存戦略だった?実は人格者だった?それとも暴君?毛利輝元の素顔とは

佐竹義重霊屋

いよいよ、世界遺産の建物を見てみましょう。を見てみましょう。16世紀末に建てられた「佐竹義重霊屋(さたけよししげたまや)」。奥の院に残る最も古い木造建築のひとつです。 佐竹義重霊屋は、参道の合流地点から少し左に(北に)入った場所にあります。立ち並ぶ供養塔の向こう側、森の手前に佇む建物です。

「霊屋」の意味や「佐竹義重霊屋」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「高野山奥の院の世界遺産」で戦国武将の素顔を探る(佐竹義重霊屋)

河野通直墓所

佐竹義重霊屋の近くに、参道の合流地点があります。ここを右(南)に入って、少し寄り道をしてみましょう。 合流地点の近く、左側(東側)に、「河野通直墓所」があります。河野通直は、戦国時代に滅亡した四国の大名、河野氏の最後の当主だった人です。 河野通直は、武将としての優劣と、人格が優れているかどうかが別であることを示している人物の一人です。

墓所には2基の供養塔が並んでいますが、左側が河野通直の供養塔です(右側は通直の母)。 河野氏は、源平合戦の頃から伊予(愛媛県)で大きな勢力を持ち続けた豪族で、室町時代には、松山の道後温泉の目の前にある湯築城を拠点にしていました。瀬戸内海で最大規模の水軍のひとつ「河野水軍」を従えており、あの「村上水軍」もその傘下にありました。 しかしその河野水軍も含め、従えていた勢力をうまくコントロールすることができず、戦国大名化に失敗。通直が継いだ頃は、長宗我部氏に圧迫され、毛利氏に従属せざるを得なくなるほど衰退していました。 河野通直自身は、優れた人格を持つ当主として慕われていたようです。しかしリーダーシップを発揮することはできなかったようで、豊臣秀吉の四国攻めに対して意見をまとめることができず、どっちつかずの態度で籠城を続けた結果、河野氏は滅亡することになりました。 その降伏の仲介をした小早川隆景に対し、河野通直は、城内にいた子どもたちの助命嘆願をしたという話が伝わっています。

岩槻大岡家墓所(大岡忠相建立)

河野通直墓所からさらに南に進むと、また左側(東側)に、「武蔵岩槻大岡家墓所」があります。

「大岡越前守供養塔」とも呼ばれますが、実は大岡越前守(大岡忠相)を供養する塔ではなく、大岡越前守が、親戚の岩槻大岡家を供養するために建立したということです。 いずれにせよ、情理を尽くした「大岡裁き」で名高いだけでなく、公認の先物取引市場として世界初とされる「堂島米会所」の誕生にも深く関わった「大岡越前守」にゆかりの場所です。

平敦盛・熊谷直実供養塔

岩槻大岡家墓所のすぐ近くに、「平敦盛・熊谷直実供養塔」があります。

ここでは平家物語に描かれた、源平合戦の「一ノ谷の戦い」の敵同士が同じ墓所に入っています。 織田信長が愛した幸若舞「敦盛」が描いているのは、この2人の物語。中世・近世の武士たちの複雑な感情を、よく物語ってくれる場所です。 平敦盛と熊谷直実についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 平敦盛と熊谷直実の物語織田信長と幸若舞「敦盛」

爪彫り地蔵

「平敦盛・熊谷直実供養塔」からさらに南に行くと、「爪彫り地蔵(爪彫地蔵尊、つめほり地蔵)」と呼ばれる地蔵があります。

「爪彫り地蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(爪彫り地蔵)

奥の院ルート案内② (平敦盛~上杉謙信)

いったん参道の合流地点に戻り、「佐竹義重霊屋」から、同じく世界遺産の「上杉謙信霊屋」に向かって参道を進みましょう。

奥の院(平敦盛~上杉謙信)

この辺りには、著名な戦国武将が特に多く集まっています。 関東の戦国時代を代表する北条五代(北条早雲から氏政まで)。源氏の祖であり、あらゆる武士の原点でもある多田満仲(源満仲)。徳川家康の10男で、紀州徳川家の祖になった徳川頼宣。九州を代表する戦国武将の一人、鍋島直茂。北東北の戦乱を乗り切った南部利直。「戦国最強」とも言われる甲斐の虎・武田信玄と息子の勝頼。その武田家の宿老、馬場信春。毛利家を代表する猛将・吉川元春などなど・・・ 「戦う武士」という生き方の、始まりと終わりを象徴するエリアでもあります。

北条五代(北条早雲・氏康ほか)

21町石の近く、参道の左側(北側)に、「小田原北条家墓所」への案内の碑がたっています。

北条早雲(伊勢宗瑞)から5代にわたって発展を続け、関東地方の覇者となった小田原北条家は、先ほどの佐竹義重の宿敵でもありました。 一方、北条家は内政に力を注いだことでも知られ、特に3代・北条氏康は戦国随一の民政家とも言われます。最近では、その統治が、北条家から関東支配を引き継いだ徳川家の「天下取り」を支えていたことも分かってきています。 小田原北条家とは北条家が掲げた「国家安泰」北条家の「滅亡」と高野山「北条の国民国家」が支えた「家康の天下取り」

多田満仲

参道を少し進んだ右側にある「多田満仲墓所」。ここは先ほどの小田原北条家墓所とは対照的に、「もののふ」の原点を象徴する場所です。

多田満仲(源満仲)は、平安時代中期、藤原氏が栄華を極めた時代の武士です。彼は天皇の孫でありながら藤原氏の駒となり、仏教で罪とされる「殺生」を繰り返す道を選びました。そして、その「罪」ゆえに貴族たちから蔑まれながらも、「武士団」という実力集団を形成していきます。 「多田満仲」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 多田満仲(源満仲)とはどんな人物?多田満仲の子孫たち

数取地蔵

「数取地蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(数取地蔵)

徳川頼宣

「多田満仲墓所」から少し進むと、「紀州初代藩主徳川頼宣墓所」という標柱が立っている墓所があります。 徳川頼宣は徳川家康の10男であり、8代将軍・徳川吉宗の祖父でもある人物です。

加藤清正の次女を妻に迎えた徳川頼宣は、ある意味で、伊達政宗以上に「遅れてきた戦国武将」でした。浪人たちを率いて清に攻め込む計画もありましたが、政争に敗れて頓挫します。 家康に溺愛された冒険少年・徳川頼宣和歌山がみかんの名産地になったのは頼宣のおかげ?「紀州の名君」から「浪人の首領」へクーデター未遂事件で失脚「由比正雪の乱」によって潰えた日清戦争の計画仏教の庇護者でもあった徳川頼宣

鍋島直茂・勝茂墓所

鍋島直茂は、肥前佐賀藩の藩祖。「九州三国志」の一角を担った龍造寺隆信の家老として活躍し、沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死した後も、さまざまな動乱をうまく乗り切りました。 鍋島勝茂は直茂の息子であり、龍造寺家から鍋島家への政権移行を、ほぼ平和裡に成し遂げた人物です。とはいえ、儒教視点の講談などでは「主家を乗っ取った」と悪役にされてしまうことも少なくありませんでした。

武田信玄・勝頼墓所

多田満仲墓所から参道を少し進むと、案内板もついている、少し大きめの墓所があります。これが織田信長と徳川家康を震え上がらせた「戦国最強の甲斐の虎」武田信玄と、その息子、勝頼の墓所です。 左側の大きめの五輪塔が武田信玄、右が勝頼の供養塔になります。

武田家は、高い戦闘能力を持つだけでなく内政手腕も優れた大名でした。一方、多田満仲の流れをくむ源氏の名家でもあったことから、成り上がりの戦国大名たちに比べると、古い価値観を大切にしていました。 自ら高野山にやってきた上杉謙信や北条氏直ほどではありませんが、武田信玄も高野山との深い関わりがあります。 出家して「晴信」から「信玄」に名を変えた翌年、高野山の「成慶院」と「持明院」の2つを菩提寺にしたのです。そして信玄の死後、勝頼が信玄の肖像画と位牌を収めました。信玄の肖像画は「成慶院」「持明院」それぞれに現存しており、その中でも「成慶院」が収蔵している肖像画は、武田信玄の姿を伝える代表的な肖像画のひとつになっています(重要文化財)。

馬場信春

武田信玄・勝頼墓所の近くに馬場信春の供養塔もあります。 馬場信春(馬場信房)は、武田四天王(馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信)の一人で、信玄の父、武田信虎の時代から仕えた重臣中の重臣です。 「不死身の馬場美濃」とよばれた豪傑でしたが、長篠の戦いで殿をつとめ、武田勝頼が退却したのを見届けてから討ち死にしました。 戦国武将の生き方を代表する武将の一人です。

南部利直

鍋島家墓所の近くにある「奥州南部家墓所」には、東北の大藩・盛岡藩の初代藩主・南部利直、2代藩主・南部重直などの供養塔があります。

南部利直は、南部家中興の祖と言われる南部信直の長男で、豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近したことで勢力を確保。 南隣の伊達政宗とはライバル同士で、関ケ原の戦いの際、伊達政宗に一揆を煽動されたこともありましたが(岩崎一揆)、何とかおさめました。 本拠地を三戸から盛岡に移し、現在の盛岡市の礎をつくりました。

大師の腰掛石

武田信玄・勝頼墓所の近くに、六角形の枠に囲まれた大きな石が置いてあります。

空海が高野山の開創のために奔走していたとき、この石に座って一休みしたと伝わっており、「大師の腰掛石(弘法大師の息処石)」と呼ばれています。 空海はその半生をかけて高野山の開発に取り組んでおり、平安京に住んでいた頃から、たびたび高野山に足を運んでいます。当時、この奥の院のあたりはどんな場所だったのでしょうか。

吉川元春

「吉川家墓所」の裏手に、「毛利両川」の一人として知られる吉川元春の供養塔があります。

吉川元春は毛利元就の次男。安芸の名門、吉川氏の養子となって家督を乗っ取り、尼子家との戦いなど、特に山陰方面で活躍しました。

上杉謙信霊屋

武田信玄・勝頼の墓所から参道を進み、大師の腰掛石を過ぎて少し行くと、左側に上杉謙信の霊屋があります。少し奥まった場所ですが、石段の横に案内の柱が立っています。 奥の院を代表する建築物のひとつで、重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されています。

「上杉謙信霊屋」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「高野山奥の院の世界遺産」で戦国武将の素顔を探る(上杉謙信霊屋)

奥の院ルート案内③ (上杉謙信~中の橋)

奥の院(上杉謙信~中の橋)

榊原康政墓所

上杉謙信霊屋から更に参道を進むと、同じ左側(北側)に「上州館林榊原康政墓所」という案内の柱が立っています。

その先に立っている大きめの五輪塔が、徳川家康の天下取りを支えた重臣で、四天王の一人にも数えられる榊原康政の供養塔です。

伊達政宗供養塔

榊原康政墓所の少し先に町石があり、参道の反対側(右側・南側)には、入り口に石の鳥居が立つ、少し大きめの墓所があります。鳥居をくぐって墓所に入ると(いかにも神仏習合な感じの言葉です)、たくさんの五輪塔が並んでいます。

その中央に立つひときわ大きい五輪塔が、戦国武将の中でも特に特に人気が高い「独眼竜」伊達政宗の供養塔です。

井伊直政霊屋・直弼供養塔

伊達政宗供養塔から少し参道を進むと、左に脇道があります。ここを入っていくと、井伊家の墓所があります。 少し奥まっているので分かりにくいですが、入り口に「井伊掃部守墓所」と書かれています。

左側にある小ぶりな木造の建物は、井伊直政の霊屋。その左手前に幕末の大老、井伊直弼の供養塔もあります。 井伊直政は徳川四天王の一人。武田家の山県昌景から「赤備え」のスタイルを引き継いで活躍。徳川幕府の要のひとつ、彦根藩の初代藩主になりました。 井伊直弼は幕末の大老で、「安政の大獄」で大量粛清を行い、「桜田門外の変」で殺害されたことで知られている人物です。

小早川隆景供養塔

小早川隆景の供養塔は、井伊家墓所の辺りから奥に入っていった、少し分かりにくい場所にあります。

小早川隆景は毛利元就の三男で、竹原小早川家、沼田小早川家という二つの小早川家を継承し、毛利家の発展を支えました。 当主であるはずの毛利輝元は、叔父の小早川隆景に大して全く頭が上がらず、事実上は隆景が毛利家当主だったともいえます。 特に本能寺の変以後の毛利家の動きは、隆景の主導によるものが多く、秀吉から厚い信頼を獲得しました。その結果、秀吉から半ば強引に筑前・筑後の2カ国を与えられ、それがきっかけで、小早川家は豊臣直属の大名のような形になっていきます。 小早川隆景自身は、このような秀吉の動きに対し、かなり抵抗したようです。武士といえば領土を獲得し維持をするために生きていたようなイメージがありますが、小早川隆景は、「権力者が領土をくれるというのに、いらないと言って強く抵抗した(けれども結局はもらわないといけないはめになった)」という珍しい武将です。

山内一豊供養塔

山内一豊の供養塔は、伊達政宗墓所の少し先にあります。

山内一豊(やまうち かずとよ)は司馬遼太郎「功名が辻」の主人公で、大河ドラマの主人公にもなった人物。妻、見性院の「内助の功」で出世した戦国武将として知られています(見性院が貯めておいた財産で馬を買って、馬揃えで武士の面目を施した等)。 関ヶ原の戦いの前に、豊臣恩顧の武将たちを徳川側になびかせる上で大きな役割を果たし、本戦では大して活躍しなかったにも関わらず、土佐一国の主となりました。 戦国末期が、武略よりも政略の時代になっていたことを伝えてくれる戦国武将の一人です。

薩摩島津家供養塔(島津家久ほか)

井伊掃部守霊屋から、ふたたび参道に戻って先に進みます。 左側の町石の手前に「弘法大師護摩石(弘法大師護摩鉢)」があります。かつて空海が、ここで護摩を炊いたのでしょうか。 護摩とは真言密教の修法のひとつで、護摩木という木を焼いて祈ります。仏の智慧の炎によって、煩悩を焼き尽くすといいます。 参道の反対側(南側)には、また石の鳥居をそなえた墓所があります。鳥居の下の案内の標柱には、「薩摩島津家 初代家久 二代光久 綱久 墓所」と書かれています。

一の橋の近くにも薩摩島津家の墓所がありましたが、あちらは江戸時代中期の藩主で、こちらは初期の藩主たちのものです。 薩摩藩の初代藩主・島津家久(島津忠恒)

石田三成供養塔

この「薩摩島津家供養塔」のすぐ近く、同じ参道の南側に「石田三成供養塔」と「明智光秀供養塔」が続いています。どちらも、いっときは天下の中枢を掌握しながらも、のちの天下人と正面から戦い、そして敗れ去った人たちです。

「石田三成供養塔」は、石田三成本人が生前からつくっていたものだと伝わっています。この石田三成も、「豊臣秀次事件」などをめぐり、高野山と関わっています。

明智光秀供養塔

明智光秀の供養塔は、明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた後、高野山に逃れた家臣の津田重久が建立したものだと伝わっています。

さらに4歳だった明智光秀の娘、「おもん」も、いったん高野山に退避し、その後信州に逃れていったと記録されています。

奥州相馬家墓所

明智光秀供養塔の少し先に、「奥州相馬家墓所」があります。 苔むした鳥居の向こうに、同じく苔むした五輪塔がややランダムに並んでいて、周辺の木立とも相まって、遺跡っぽい雰囲気が醸し出されています。 相馬氏は、鎌倉幕府の成立に大きな役割を果たした桓武平氏の実力者、千葉常胤を祖とします。源頼朝の主力となったのは千葉氏を筆頭に、三浦氏、北条氏、畠山氏など関東の桓武平氏(坂東八平氏)でした。「源平争乱」と呼ばれる治承・寿永の乱ですが、実際には桓武平氏内部の戦いという側面もあったのです。 千葉氏の祖は平将門の従兄弟、平忠頼であり、その正室が平将門の娘だったことから、平将門が相馬氏の遠祖だともされます。 相馬氏は、源頼朝の時代から戊辰戦争の時代までの740年、つまり武家政権の最初から最後まで、奥州南部(福島県)の沿岸部を統治し続けました。 同じような例は、奥州北部の南部氏、九州の島津氏、相良氏、平戸氏など、数えるほどしかありません。 そして相馬と言えば、相馬野馬追。「遠祖」平将門の軍事訓練が発祥とも言われる「馬追い」の神事で、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。 相馬家で最も有名な人物は、相馬義胤です。もっとも、相馬家歴代の当主の中に「相馬義胤」は3人います。畠山重忠の乱や承久の乱で戦った鎌倉時代初期の相馬義胤、伊達輝宗・伊達政宗に抵抗し続けた戦国時代の相馬義胤、そしてその孫で、江戸の大火(桶町火事)で自ら消火活動の陣頭指揮を取って重傷を追った江戸時代初期の相馬義胤です。 この墓所には、二人目と三人目の相馬義胤の供養塔があると思われます。

本多忠勝墓所

さらに町石を過ぎて進むと、「子授け地蔵」があります。その向かいにあるのが「徳川四天王の筆頭格、本多忠勝の墓所です。

榊原康政に比べて小ぶりですが、「伊勢桑名城主 本多忠勝墓所」と書かれた標柱が立っています。 本多忠勝には数々の武勇伝があり、「戦国最強猛将ランキング」で第一位に輝いたこともあります。武田家の武将が「家康にはもったいなすぎるものが2つある。鹿の角がついた兜と、本多忠勝だ」と言って恐れたとも伝わります。 武士としての美しさも兼ね備えていたようで、徳川家康は本多忠勝のことを「花実兼備の勇士」と称えました。「美しさ」というのは味方を鼓舞し、敵を畏怖させる効果があり、戦国武将にとって大切な要素のひとつでした。

市川團十郎供養塔

中の橋を渡る手前に、17世紀後半の歌舞伎役者、市川團十郎の供養塔があります。市川團十郎家の初代です。

この市川團十郎は、元禄時代を代表する役者として活躍しました。荒事の大見得「元禄見得」を考案し、「市川宗家」江戸歌舞伎の頂点に君臨する基礎を築きます。 しかし44歳のとき、舞台上で他の役者に殺害されました。これ以来、市川團十郎の名跡を継いだ人の半数近くが、非業の最期を遂げています。

柴田勝家墓所

市川團十郎の墓所から奥に入っていくと、織田信長の重臣、柴田勝家の墓所があります。少し分かりにくいですが、苔むした五輪塔の前に「柴田修理勝家墓」と書かれた標柱があります。

柴田勝家は、秀吉の天下取りが成功していなければ、代わりに織田政権を引き継いだと見られる人物。しかし敗者となったこともあり、信頼できる史料はほとんど残っていません。 「鬼柴田」「瓶割り柴田」「かかれ柴田」という異名を持つ織田家随一の猛将として知られ、「織田家の宿老」として「成り上がり」の秀吉と好対照にもされますが、その逸話の多くは、「太閤記」などによる創作だったことが分かってきています。 実際の柴田勝家とはどんな武将だったのか、限られた材料から考えてみましょう。 柴田勝家は「猛将」なのか?柴田勝家は本当に「宿老」だったのか?柴田勝家の最大の功績とは?司令官としての柴田勝家実は「武断派」ではなかった?勝家の人間性とは

中の橋

2つ目の橋は、「中の橋」または「二の橋」と呼ばれています。「中の橋」は奥の院を途中から参拝する場合の入り口にもなっていますが(バス停や駐車場、案内所があります)、橋そのものはその手前にあります。

ここの川は「金の川」または「死の川」と呼ばれています。中の橋を渡ることで、あの世にまた一歩近づいたことになります。

奥の院の地図(中の橋~弘法大師御廟)

奥の院ルート案内④ (中の橋~最上義光)

中の橋の先のエリアでは、これまで見てきた著名な武将たちの供養塔とは違う、高野山の別の側面が見られます。

奥の院(中の橋~最上義光)

姿見の井戸

橋を渡ると、「姿見の井戸(すがたみのいど)」と呼ばれる井戸があります。「高野七不思議のひとつに数えられる井戸です。 井戸の中を覗くのは、勇気がなければやめておきましょう。もし、水面に顔が映らなかったら、三年以内に死んでしまうと言われている怖い井戸なのです…

汗かき地蔵

「姿見の井戸」のすぐそばのお堂に、「汗かき地蔵」と呼ばれるお地蔵様がいます。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(汗かき地蔵)

身代わり地蔵(頬切地蔵)

「汗かき地蔵」のすぐ先にも、人の苦しみを代わりに引き受けてくれる、「身代わり地蔵」または「頬切地蔵」と呼ばれるお地蔵様がいます。

「頬切地蔵」と呼ばれるのは、右の頬に小さな切り傷があるためです。

禅尼上智供養塔

中の橋の先は、参道は石段の上り坂になります。少し登ると、高さ90センチほどの石碑があります。石碑は分かりにくいですが、すぐ後ろに、「禅尼上智碑」と書かれた案内板があります。

この「禅尼上智供養塔」は室町時代前期(南北朝時代)に建てられたもので、女性のための供養塔です。女人禁制の高野山ですが、供養塔については女性のものも受け入れました。 この供養塔に耳をあてると、極楽からの声、または地獄からの叫び声が聞こえると言い伝えられ、高野七不思議のひとつとなっています。どちらの声が聞こえてくるかは、聞く人の日頃の行い次第だとか・・・ 近くに閻魔王の本地仏、地蔵菩薩があることから、こういう伝承が生まれたと伝わります。

密厳堂

その先にあるお堂は「密厳堂(みつごんどう)」といって、平安時代後期の高僧、覚鑁(かくばん、興教大師、1095-1144年)が祀られています。

覚鑁は高野山の座主として活躍しましたが、後に追放されて根来寺を開創した人物です。 覚鑁の密教改革は失敗に終わるものの、その後に発展する鎌倉仏教の礎を作ることになりました。 覚鑁の密教改革焼き討ちと追放、そして宗派対立武装勢力となった覚鑁の後継者たち「覚鑁坂」の和解

高麗陣敵味方供養碑

参道の左側に、石の鳥居と案内板がついた墓所が見えてきます。これは高野山奥の院で3つめの、島津家の墓所です。

しかし、この鳥居をくぐる前に、まずはその右手前にある石碑に注目してみましょう。「武士道」という概念の、多面的な性質をよく現している石碑です。 この石碑は「高麗陣敵味方供養碑」と呼ばれます。 「高麗陣」とは、豊臣秀吉が朝鮮半島を攻めた文禄・慶長の役のこと。この文禄・慶長の役では、島津家は非常に複雑な立場におかれていました。そしてそのことは、島津の武将たちと兵たちをさまざまな悲劇にひきずりこんでいくことになります。 秀吉に屈した島津家が背負った宿命庶民出身の兵が奴隷狩りを?「耳鼻削ぎ」が横行した理由とは「元寇」における高麗軍の悲劇島津義弘が願った「救済」とは

島津義久・義弘・斉彬ほか

それでは、「高麗陣敵味方戦死者供養塔」の横の鳥居をくぐって、高野山奥の院における3つめの「薩摩島津家墓所」に入っていきましょう。

3つの中でも、ここには特に著名な人物が集まっています。つまり戦国時代~江戸初期の武将たちと、幕末の藩主たちです。 ここに供養塔がある「島津義久」「島津義弘」「島津重豪」「島津斉興」「島津斉彬」「島津久保」「長壽院盛淳」や、島津家と高野山との深い関係については、以下のページにまとめてあります。 島津家のヒーローたち(島津義久・義弘・斉彬ほか)島津家と高野山の因縁とは?家臣の五輪塔の方が目立っているのはなぜ?

中川秀成

「薩摩島津家墓所」や「高麗陣敵味方戦死者供養塔」の先、28町石と29町石のちょうど中間あたりの参道左側(北側)に、「豊後岡 中川家墓所」があります。 瀧廉太郎が「荒城の月」をイメージしたことで知られる大分県竹田市の山城、「岡城(豊後竹田城)」を拠点にした岡藩の大名、中川家の墓所です。 右から二番目の五輪塔(奥の五輪塔の右側)が、初代藩主・中川秀成(なかがわ ひでしげ)の供養塔です。

中川秀成はそれほど有名な武将ではありませんが、父の中川清秀は羽柴秀吉の天下取りを実現させた、歴史上きわめて重要な人物です。 中川秀成も、「父の仇の娘を正室にする」という高野山的なことを行った人物です。中川清秀の功績の大きさも含めて、以下のページでご紹介します。 「豊後岡・中川家」とは秀吉の天下取りの「捨石」となった中川清秀中川秀成が「父の仇」の娘と結婚した理由とは?「中川家取り潰し」の危機を救った故・清秀の功績

正清院(浅野長晟夫人)

「豊後岡 中川家墓所」の少し先、参道の右側にひときわ大きな五輪塔があります。鳥居の手前には、「安芸 浅野家墓所」と書かれた標柱が立っています。

奥の院で二番目に大きな五輪塔であることから、「二番石」とも呼ばれる供養塔です。しかしこの二番石は、この後でご紹介する一番石と同じように、実は女性のための供養塔です。 「正清院(しょうせいいん)」または「振姫(ふりひめ)」と呼ばれるこの女性は、徳川家康の三女。 蒲生氏郷の嫡男、蒲生秀行と結婚しましたが、秀行は30歳で急死。その後、1616年に当時の和歌山藩主・浅野長晟(あさの ながあきら)と再婚します。 浅野長晟は、豊臣政権の五奉行の代表格だった浅野長政(あさの ながまさ)の次男で、のちに安芸国広島藩の初代藩主になった人物です。 正清院は再婚の翌年、浅野長晟の跡継ぎ、光晟を生みますが、その16日後に亡くなりました。38歳で、当時としては高齢出産であったことが関係していたのでしょうか。 この供養塔は、正清院の死からちょうど一年後に浅野長晟が立てたものです。 家康の娘であることはもちろん、高野山の近くの和歌山で亡くなったこと、跡継ぎの出産と引き換えに命を落とした妻に対する浅野長晟の思いなど、大きな供養塔が立てられた理由は色々と考えられます。 それにしても、多くの戦国武将や江戸の大名たちが集まる高野山奥の院で、「一番石」も「二番石」も女性の供養塔だというのは、どういうわけでしょうか? 奥の院に大きな供養塔が立てられた背景には、資力に加えて、本人や遺族の高野山に対する思い入れの強さが関わっていたと見られます。 豊臣家墓所もそうなのですが、「女人禁制」の高野山が、近世の女性たちにとっていかに大切な場所であったかが、ここでも感じ取れますね。

ビルマ方面戦没英霊納骨塔

29町石の少し手前に、「藤之坊 成福院墓所」と刻まれた石柱と、「長州毛利家墓所」と書かれた標柱が立っています。 奥の正面に立っているパゴダ形式の仏塔は、高野山の宿坊のひとつ、成福院の「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」。ビルマ・インド・タイの各地より収集した第二次世界大戦の戦没者の遺骨が納められているといいます。

真田信之

「長州毛利家墓所」の辺りから参道の左側(山側)への脇道を入っていくと、「信州 真田旧伯爵家累代墓所」と書かれた標柱が立っており、その奥に大小様々な大きさの五輪塔が並んでいます。

高野山で「真田」といえば九度山に蟄居した真田昌幸・信繁(真田幸村)父子を連想しますが、こちらは真田昌幸の長男・真田信之(さなだ のぶゆき/真田信幸)の家系です。 真田信之は、第一次上田合戦では戸石城の別働隊を率いて徳川勢を翻弄し、勝利に貢献しましたが、関ケ原の戦いでは父や弟と袂を分かち、東軍に属しました。そのため真田家は存続することができ、義父・本多忠勝の働きかけも功を奏して、昌幸と信繁の命も助けられます。 真田信之は名君としても知られていますが、非常に長生きであったことに加え(93歳まで生きました)、91歳まで隠居しなかったという意味でも、非常に珍しい人物です。幕閣たちが信之を頼りにしていたため、隠居願を出しても許してもらえなかったようです。 「遅れてきた戦国武将」徳川頼宣も真田信之を非常に尊敬し、たびたび信之を招いては、真田家がいかに父の家康を苦しめたかを聞いていたといいます。

最上義光

「信州 真田旧伯爵家累代墓所」の少し奥(さらに高い場所)に、「羽州山形太守 最上義光公墓所」と書かれた標柱が立っています。 その横にある大きめの五輪塔が、出羽の大名、最上義光の供養塔です。

最上義光の妹、義姫は伊達輝宗の正室。つまり最上義光は伊達政宗の伯父にあたります。伊達政宗と対立し、交戦直前になったこともありますが、義姫に制止されて和睦しました。 上杉景勝とは庄内地方をめぐって戦い続けた長年の宿敵同士で、特に豊臣政権下で景勝が会津の領主になってからは、上杉家から見れば最上領が上杉領を分断し、最上家から見れば上杉領が最上領を挟む形となったため、「東北の火薬庫」ともいえる状況になります。 第二次世界大戦が勃発するきっかけを作った「ポーランド回廊」や、カルロス5世のハプスブルク帝国を分断する形になったフランソワ1世のフランス王国のような状態です。 この火薬庫がはじけたのが、「北の関が原」とも言われる1600年の慶長出羽合戦でした。戦略的に考えれば、石田三成たちを支援するために南の徳川を攻めるべきだった上杉勢は、宿敵・最上の打倒を優先して北に攻め込んだのです。 最上勢は小勢ながら善戦し、長谷堂城の戦いで直江兼続を翻弄。東軍の勝利に大きく貢献します。この戦功が高く評価されて、最上義光は念願の庄内地方を獲得。57万石という大藩の領主となりました。 もっとも、最上家は義光の死から9年後の1622年に起きた内紛(最上騒動)をきっかけに改易されてしまうことになります。

奥の院ルート案内⑤ (最上義光~前田利家)

この先は、浅井長政の娘で、波乱の末に将軍の妻になったお江や、お江の娘で、滅びゆく豊臣家に嫁いだ千姫など女性たちの供養塔があるエリアに入ります。

奥の院(最上義光~前田利家)

毛利秀元

「ビルマ方面戦没英霊納骨塔」と同じ敷地内、右手前に立っている三基の五輪塔が「長州毛利家墓所」です。手前には鳥居があり、その傍らにも「長州毛利家墓所」と書かれた標柱が立っています。

長府藩の歴代藩主の供養塔で、右から順に、第3代藩主・毛利綱元、初代藩主・毛利秀元、第5代藩主・毛利元矩です。 長府藩は毛利輝元の長州藩の支藩。毛利元就の四男・穂井田元清の血筋を受け継いでいます。 初代藩主の毛利秀元は、慶長の役で輝元に代わって毛利家の軍勢3万を指揮。その後別家を創設して独立大名となりますが、引き続き、吉川広家、安国寺恵瓊とならぶ毛利家の重鎮でした。 関ヶ原の戦いでも、大阪城に留まった輝元に代わって毛利家の兵を指揮します。しかし、東軍に内通していた吉川広家に止められて動くことができず、傍観。これが、西軍敗北の最大の理由のひとつになりました。 長州藩の本家では、輝元の家系が断絶した際に毛利秀元の家系が藩主を受け継いでおり、幕末の毛利敬親など、江戸後期の長州藩藩主は秀元の子孫です。

水野勝成

「長州毛利家墓所」の辺りに戻り、参道を進みます。29町石、30町石を過ぎると、右側に「備後福山 水野家墓所」があります。 二本の大木に挟まれている石の鳥居の向こう側に、2基の五輪塔が立っています。右側が備後福山藩の初代・水野勝成(みずの かつなり)。左側が勝成の妻・お登久(香源院。二代藩主・水野勝俊の母)です。

水野勝成は、非常に数奇な人生を歩んだ戦国武将。あの前田慶次を超える「傾奇者」だとも評されている人物です。 徳川、織田、羽柴を渡り歩いた父・水野忠重水野勝成「傾奇者人生」の幕開け7度の出奔と7度の仕官を繰り返した15年関ヶ原の戦いで西軍の拠点を攻略大阪夏の陣の活躍で「戦功第二」と評される革新的な領主としての水野勝成「近世日本最後の戦い」島原の乱を終わらせた勝成

千姫供養塔

「高麗陣敵味方戦死者供養塔」の先で、参道から左に分岐している道に入ります。その奥にあるのが天樹院・千姫の供養塔です。

千姫は、天下人の娘でありながら、悲劇の人生を歩んだ女性です。 夫・豊臣秀頼を祖父と父に殺された「千姫」

崇源院(お江)墓所

千姫の供養塔のすぐ近くに、「一番石塔」と呼ばれる五輪塔があります。「一番石塔」とは、高野山奥の院で最も大きい五輪塔という意味です。

どんな戦国武将の供養塔なのかと近づいてみると・・・鳥居の手前の標柱には、「崇源院(徳川秀忠夫人)墓所と書かれています。 崇源院・お江は、戦国の世で女性たちにふりかかった運命を、一人でいくつも背負った女性です。 奥の院最大の五輪塔が伝える「将軍の母・お江」の悲劇

お化粧地蔵

女性たちの供養塔から参道に戻ると、北の弘法大師御廟に向かう参道とは別に、東の方に行く分岐もあります。「英霊殿」に向かう道です。 しかし「英霊殿」のエリアは、帰りに通ることもできるので、このまま参道を進みます。 まず目に入ってくるのは、ユニークなお地蔵様。顔にはお化粧がほどこされ、口紅まで入っています。「お化粧地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩です。

「お化粧地蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(お化粧地蔵)

芭蕉句碑

「お化粧地蔵」のすぐ近くに、江戸時代前期の「俳聖」松尾芭蕉の句碑があります。

ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 と刻まれています。 「芭蕉句碑」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 俳聖の両親への思いが刻まれた「芭蕉句碑」

松平定頼

「お化粧地蔵」の少し先、参道の右側に「伊予松山松平(久松)家墓所」と書かれた標柱が立っています。 久松松平家(久松家)は、「現存12天守」のひとつとして知られる、愛媛県松山市の松山城を居城にしていた大名。中央の大きな五輪塔は、その2代藩主、松平定頼(まつだいら さだより)の供養塔です。

この久松松平家の成り立ちには、家康の母、於大の方(伝通院)の運命が関わっています。 於大の方は竹千代(家康)を産んだ後、夫の松平広忠から離縁されてしまいます。兄・水野信元が松平氏の主君、今川家と敵対していた織田家に従ったからとも、それ以外の理由で水野信元と対立したからとも言われています。その後於大の方は、水野信元の婚姻政策により久松俊勝と再婚しました。 その後生まれた久松俊勝と於大の方の3人の息子は、家康にとっては「異父弟」にあたります。父が異なるとはいえ兄弟であることには変わりなく、家康は3人の弟に松平性を与えて家臣にしました。その結果、「久松氏」であると同時に「松平氏」でもある、「久松松平氏」が始まったのです。 この3人の息子の一人が、伊勢桑名藩主となった松平定勝。その息子、松平定行は伊予松山藩の初代となります。ここに供養塔がある松平定頼は定行の息子です。 久松松平家は、西国における数少ない徳川家の親藩のひとつとして、四国・中国地方の大名ににらみをきかせる役割を担っていました。

仲良し地蔵

お化粧地蔵のすぐ先にも、可愛らしいお地蔵様がいます。なんと、2体の小さなお地蔵様がぴったりくっついて、肩を寄せ合っているのです。「仲良し地蔵」と呼ばれます。

戦艦陸奥

ひときわ大きな、赤色の供養塔が「戦艦陸奥殉職者供養塔」です。変わった形をしているのは、実際に戦艦陸奥の四番砲台にあった推進軸が柱に、砲座が台盤に使われているためです。

戦艦陸奥は、姉妹艦の「戦艦長門」とともに帝国海軍の象徴として期待されていました。 しかし実際に太平洋戦争に突入してみると、海戦は大きさよりも機動力や航空力が重要になっており、速度が遅い戦艦は活躍できませんでした。戦艦陸奥も、戦艦大和などとともに待機することが多く、「燃料タンク」や「艦隊旅館」と揶揄される存在になっていたのです。 そして1943年1月、トラック諸島から日本に戻り、広島湾沖で停泊していた際に、戦艦陸奥は謎の爆発を起こし、沈没します。その際、1000人以上の乗員が巻き添えになって爆死しました。爆発の原因ははっきりしていませんが、何らかの不満を持った乗員による人為的なものだとも、爆雷が誤爆したからだとも言われます。 太平洋戦争の悲劇といえば、戦闘や空襲、飢餓、マラリア、特攻による犠牲者が知られていますが、このような形の悲劇も起きていたのです。

前田利長

標柱には「加賀前田家二代利長墓所」と記されており、前田利家の息子、前田利長の供養塔だと分かります。高野山奥の院では3番目に大きいことから、「三番石」とも呼ばれています。

加賀、越中、能登を支配し、豊臣政権では徳川家に次ぐ勢力を持った加賀前田家。秀吉と利家の死後、前田利長は真っ先に徳川家康のターゲットにされましたが、その挑発に乗ることはなく、母・まつを人質に出すことで巧みに乗り切りました。 その後、見事に家康の術中にはまった上杉景勝とは対照的でした。「実利」を保つ外交のあり方は、現代の国家にも大いに参考になるものがあります。

前田利家・まつ

「加賀前田家二代利長墓所」の参道の向かいに、前田利家とまつの供養塔もあります。

奥の院ルート案内⑥ (前田利家~御廟の橋)

奥の院(前田利家~御廟の橋)

この先も、戦国の世を生きた女性たちの存在感が大きいエリアが続きます。 夫・家康とその正妻の仕打ちに耐えながら、双子を育てた結城秀康の母・お万。その豊臣家の滅亡を見守った北政所。 浄土宗の開祖・法然、高野山を滅亡から救った木食応其など、高野山と深い関わりがある高僧たちの墓所もあります。

法然上人墓所

加賀前田家供養塔から少し進んだところに、「法然上人圓光大師墓所」と書かれた標柱が立つ立派な墓所があります。

浄土宗の開祖、法然。法然も、人生で最も活発な時代、つまり20代から40代にかけて高野山に籠もっていたことが分かっています。 「浄土宗の開祖」法然は高野山で何を学んだか?

浅野長政・幸長

法然の墓所の近く、32町石の手前にある「安芸浅野家墓所」。「安芸浅野家墓所」は、手前の28町石と29町石の間にもあり、よく混同されるのですが、「二番石」とも呼ばれるその五輪塔は正清院(浅野長晟夫人)の供養塔。 32町石の手前にあるこちらの墓所には、浅野長政、浅野幸長、浅野幸長の妻、そして浅野長晟の供養塔です。

浅野長政は、豊臣秀吉の妻、ねね(北政所・高台院)と同じ義父(浅野長勝)を持つことから、秀吉の縁戚として出世した人物です。豊臣政権では五奉行の一人となり、太閤検地などで行政手腕を発揮しました。 長政の息子、浅野幸長は、慶長の役で転戦しましたが、帰国後は武断派の一人として石田三成と対立します。そのことが家康への接近につながり、関ヶ原の戦いで東軍に参加して前哨戦で活躍。本戦では毛利家と対峙し、それらの軍功により紀伊を与えられ、和歌山城主となりました。 その幸長を継いだ浅野長晟は、幸長の弟です。大坂の陣の後、福島正則に代わって安芸に42万石を与えられ、広島藩初代藩主となりました。

宝井其角句碑

法然の墓所や世界遺産「松平秀康及び同母霊屋」の近くの分岐に、「宝井其角句碑」と書かれた碑が立っています。 宝井其角(たからい・きかく)は松尾芭蕉の弟子で、「洒落風」と呼ばれる作風で知られる江戸中期の俳諧師なのですが…実はこの句碑は、色々と問題?を抱えているようなのです。

「宝井其角句碑」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 実は廃仏運動のメッセージ?「宝井其角句碑」

松平秀康及び同母霊屋

法然上人墓所のあたりで、参道は二つに分岐します。右に行くと今も空海の食事を作っている御供所がありますが、とりあえずは、まっすぐ弘法大師御廟に向かって進んでみましょう。 参道の左に見えてくる2棟の石造りの建物が、「松平秀康及び同母霊屋(結城秀康及び同母霊屋)」。17世紀初頭に建てられたもので、重要文化財、かつ世界遺産の登録資産になっています。

「松平秀康及び同母霊屋」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「高野山奥の院の世界遺産」で戦国武将の素顔を探る(松平秀康及び同母霊屋)

安産地蔵

「松平秀康及び同母霊屋」のすぐ目の前に、「安産地蔵」とよばれるお地蔵様がいます。

この安産地蔵には、「逆手地蔵」という別名もあります。棒(錫杖)を握っている右手をよく見ると、親指が下になっていて、普通のお地蔵様の持ち方とは逆になっているためです。 何か「安産」と関係がある意味があるのでしょうか?

松平忠房

「松平秀康及び同母霊屋」の少し先に、「肥前島原 松平家墓所」があります。 「島原松平家」は、「十八松平」の一つ、深溝松平家の家系で、徳川家康と共通の先祖を持っています。

1669年、松平忠房の代に肥前島原に移封され、「島原の乱」が起きたこの土地の安定化に取り組みました。松平忠房は、宗教政策や減税政策に力を注ぎ、文学を奨励したことで知られています。

豊臣家墓所

結城秀康たちの霊屋のすぐ近く(参道の左側)に、一時は結城秀康の名目上の父でもあった豊臣秀吉、およびその一族の墓所があります。

さすが天下人の一族だけあって、これまで見てきたどの墓所よりも大きく、たくさん立っている供養塔も、贅沢に間隔がとられています。 しかし研究者によると、ここに立っている供養塔の多くは女性が立てたもの。つまり「豊臣家墓所」は、豊臣家の栄枯盛衰に翻弄された女性たちの、複雑な思いが繁栄されている場所でした。 実は秀吉はいなかった?「豊臣家墓所」天皇家の先祖となった「百姓娘・とも」夫婦で弥勒仏を待つことにした「豊臣秀長の妻・慈雲院」女人禁制の地に寺を作ってもらった「天下人の母・なか」キリスト教と仏教の間で揺れた「宇喜多マリア・豪姫」「淀殿の子・鶴松」を隣に置いた「北政所・おね」の思いとは?なぜ豊臣家墓所では女性の存在が目立つのか?女性は成仏できない?「仏教の性差別」五障と変成男子

黒田光之

いったん「松平秀康及び同母霊屋」の近くに戻り、参道の分岐を東側に入っていくと、「筑前黒田家墓所」と書かれた標柱が立っている墓所があります。

筑前黒田家とは、豊臣秀吉の天下統一に貢献した「黒田官兵衛」こと黒田孝高(黒田如水)を祖とし、その息子の黒田長政が初代藩主となった福岡藩の歴代当主です。 黒田官兵衛は、実はキリシタン大名で、「シメオン」という洗礼名も持っています。しかし一方で出家もしており、「黒田如水」というのは仏門に入った時の名前です。 いったい、どういうことだったのでしょうか? 稀代の戦略家・黒田官兵衛のことですから、キリスト教に入信したのも、仏門に入ったのも、それぞれ狙いがあってのことだったのかも知れません。 息子の黒田長政も、父にならってキリスト教に入信し、「ダミアン」という洗礼名をもらいました。父の葬儀は、キリスト教式と仏教式(臨済宗)の両方で行っています。 もっとも、世渡り上手であることでは父以上だった黒田長政のことです。キリスト教が禁制となると、棄教しました。 その後、高野山の常喜院に、大威徳明王と幣振不動明王の像を寄進しています。 高野山奥の院には、筑前黒田家の墓所がいくつかありますが、ここにある五輪塔は福岡藩の第3代藩主、黒田光之の供養塔です。 黒田光之は黒田長政の孫にあたり、文治政策を進めたことや財政再建に取り組んだことで知られています。 一方、黒田家の御用商人による朝鮮との密貿易(武器取引を含む)が発覚し、幕府からの疑いをそらすために御用商人を処分したこともありました。 歴史的な大貿易港、博多を支配していた筑前藩では、薩摩藩と同様、鎖国下でも密かに交易が続いていたと思われます。 黒田光之は、高野山真言宗の信徒でもありました。空海に近い場所に供養塔を立てさせたのも、その信仰が関係していたと思われます。

浅野長矩(内匠頭)

江戸城本丸の松の廊下での「殿中刃傷」と「赤穂事件」で知られる播磨赤穂藩の第3代藩主、浅野内匠頭長矩の供養塔です。

声明地蔵

「声明地蔵(しょうみょうじぞう)」は、御供所の少し手前、浅野内匠頭の供養塔の近くにあります。

「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(声明地蔵)

木食応其上人霊屋

木食応其(豊臣秀吉の紀州攻めの際に和議を仲介した高僧)を祀る興山廟です。

御供所

御供所(ごくしょ)は、御廟で入定しているとされる弘法大師の食事を作っている場所です。

毎朝、行法師(ぎょうぼうし)が御供所で食事を作り、まず嘗味地蔵(あじみじぞう)に供えて味見をしてもらってから、弘法大師御廟に運びます。 奥の院の寺務所にもなっていて、お守りなどを売っています。

頌徳殿

御供所の隣に建つ頌徳殿(しょうとくでん)は「茶処」とも呼ばれ、お茶のお接待を受けられる休憩所です。大正4年、開創1100年記念事業の一環として建てられた大正建築です。

脇坂安元

御廟橋近くに、「播州竜野 脇坂家墓所」と刻まれた黒い石柱がある墓所があります。 左側の五輪塔は、「賤ヶ岳の七本槍の一人」として知られる脇坂安治の次男、脇坂安元の供養塔です。

脇坂安治と脇坂安元の父子は、関ヶ原の戦いが発生した際に大阪にいたため、やむなく西軍に参加しますが、小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り、大谷吉継隊に襲いかかった経歴があります。 脇坂安元は大坂の陣でも活躍し、伊予大洲の領主となった後、信濃飯田藩5万5000石の領主となりました。 とはいえ、豊臣縁故の大名であった脇坂家には少しでも理由ができれば改易される不安がありました。その不安を解消するため、安元は脇坂家に跡継ぎの候補がいたにも関わらず、あえて幕府の実力者である堀田家から養子を迎え、跡を継がせます。 この戦略が功を奏し、次代の安政(老中をつとめた堀田正盛の次男)から脇坂家は譜代扱いとなり、播磨龍野藩として幕末まで続くことになりました。 血筋を犠牲にすることで一家の存続と家格の向上を成功させた脇坂家。近世の武士が何よりも大切にした「家」が、必ずしも血縁関係を意味するわけではなかったことを教えてくれます。

あじみ地蔵

「あじみ地蔵(嘗試地蔵・味見地蔵)は、御供所の少し先(大黒天の裏あたり)にいます。

「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(あじみ地蔵)

水向地蔵

「水向地蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(水向地蔵)

織田信長供養塔

豊臣家墓所から弘法大師御廟に向かって少し進み、最後の橋「御廟の橋」の手前を左に入っていくと、織田信長の供養塔があります。

織田信長といえば、キリスト教を保護する一方で比叡山を焼き討ちし、本願寺と10年にわたって死闘を繰り広げた「仏敵」です。高野山も、1300人の高野聖が処刑された上に、信長の家臣たちに攻め込まれる寸前まで至りました。本能寺の変がなければ、比叡山と同じ運命をたどる可能性もありました。 数ある武将や高僧たちの中でも、空海に最も近い場所になぜ、「仏敵」織田信長の供養塔があるのでしょうか? なぜ「仏敵・信長」が弘法大師のそばに?ヒントは比叡山

筒井順慶

織田信長の墓所のすぐ左側に、「筒井順慶墓」と書かれた標柱があります。 大和の戦国大名だった、筒井順慶の供養塔です。

筒井順慶は、松永久秀と激しく戦った後に織田信長に臣従。本能寺の変の後は逡巡した後に羽柴秀吉に恭順。筒井順慶と細川幽斎が味方しなかったことは、明智光秀にとって大きな誤算となり、最大の敗因になりました。 その後の小牧・長久手の戦いにも参陣しますが、36歳で病死しました。息子の筒井定次は伊賀上野の領主になりますが、関ケ原の戦いの後、家中が豊臣派と徳川派に分裂したことがきっかけとなり改易。定次は切腹を命じられ、筒井家は断絶します。

御廟の橋

奥の院参道の3つ目の橋は「御廟の橋(みみょうの橋)」と呼ばれ、その名の通り弘法大師御廟のすぐ手前にかかっています。

36枚の橋板があり、更に橋全体を1枚と数えて、金剛界の三十七尊を表しています。橋板の裏側には、一枚ずつ梵字が刻まれています。 御廟の橋がかかる川は「玉川」とよばれる清流で、霊峰・揚柳山から流れています。かつては禊の場所でした。流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で亡くなった人を供養しています。 御廟の橋の右手前に鎮座する仏像は「水向地蔵」で、先祖供養の地蔵です。 ここは、「石童丸物語」の石童丸が父の道心と初めて出会った場所でもあります。 御廟の橋を渡って左奥には「弥勒石」という黒い石が安置されていて、これに触れると弥勒菩薩のご利益があると言われています。持ち上げると、願い事がかなうそうです。 この橋より先は聖域中の聖域であり、写真撮影も禁止されています。

奥の院ルート案内⑦ (御廟の橋~弘法大師御廟)

奥の院(御廟の橋~弘法大師御廟)

いよいよ、弘法大師・空海がいるエリアに入ります。 3つ目の橋「御廟の橋」を渡ると、徳川家光を将軍にした最大の功労者、春日局に加えて、陸奥宗光、近衛文麿、池田勇人など明治~昭和の歴史上の人物たちが出てきます。 川の西側には、幕末史の要の一人、孝明天皇などが祀られている御陵(仙陵)もあります。

弥勒石

御廟の橋を渡ってしばらくすると、左側にお堂が建っています。この中には「弥勒石(みろくいし)」または「重軽石」と呼ばれる石があります。 弥勒石は、もともとはなでることで弥勒菩薩との関係をつくるための石だったと考えられています。 それがいつしか、力試しの石となり、この石を片手で持ち上げ、上の段に置くことができたら、願いがかなうと信じられるようになりました。「こうや七不思議」のひとつです。

春日局

さらに参道を進むと、右側(東側)に「春日局及佐久間将監墓所」と書かれた標柱が立っています。 徳川家光の乳母で、家光の家督継承に大きな貢献をした春日局が、生前に立てたものです。 「佐久間将監」とは、徳川家康から家光まで仕えた茶道・宗可流の開祖、佐久間実勝のことだと思われます。

陸奥宗光

参道の左側(西側)には、「伯爵陸奥宗光墓」と書かれた供養塔があります。

陸奥宗光は紀州藩の出身で、幕末には坂本龍馬と一緒に活動。明治時代になると外交官として活躍。1894年、外務大臣としてイギリスとの不平等条約改正を実現しました。 さらに日清戦争や三国干渉においても手腕を発揮し、日本の歴代の外務大臣の中でも特に高く評価されている人物です。

池田勇人

高度経済成長時代の総理大臣で、「所得倍増論」で知られる池田勇人の供養塔です。

池田勇人は、難治性皮膚病を患った際、四国巡礼を行った結果治癒したことから、空海や高野山への思い入れが強かったといいます。空海にこれほど近い場所に供養塔が立ったのも、そういった背景があったのでしょう。

近衛文麿

こちらは戦前の総理大臣、近衛文麿の供養塔です。

近衛文麿は、日本の政治が軍部と政党で二分化されていることに危機感をいだき、政党の側を結束させることで軍部を抑えようと奔走。それを実行できる数少ない政治家として、天皇や元老、国民からも強く期待されていました。 しかし結局は、近衛文麿は政権投げ出しという形で責任を放棄することになりました。対中政策や対米交渉の失敗も重なり、消極的な形ではありながら、日本を戦争に導いた最大の責任者として批判されることが少なくありません。 おそらく根は善人であっただけに、近衛文麿がもっと強い心を持っていたら歴史は変わっていたかも知れないと、非常に惜しまれる人物です。

笠地蔵

笠地蔵は、御廟の橋を渡った先の、左のほうにあります。

「笠地蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「奥の院の地蔵めぐり」で空海の思想を体感できる!?(笠地蔵)

孝明天皇ほか(仙陵)

弘法大師御廟の手前の左奥、川の対岸には、「仙陵」と呼ばれる天皇陵(準陵墓)があります。

制札には「霊元天皇歯塔以下24塔」と書かれており、内部には第112代の霊元天皇以降の24人の天皇の歯、髪、爪などが納められています。 この中で特に有名なのは、第121代の孝明天皇。幕末の動乱の主役の一人です。攘夷を強く求めたことにより江戸幕府が瓦解するきっかけを作りますが、本人は公武合体による幕府の維持を希望しており、やがて開国も認めるようになります。 1867年、この孝明天皇が崩御したことをきっかけに、王政復古による武力倒幕の動きが活発化し、日本は戊辰戦争に突入していきました。

燈籠堂

御廟の橋の100メートル先、弘法大師御廟の手前に建つ燈籠堂は、高野山第二世の真然大徳(しんぜんだいとく)が建立し、治安3年(1023年)に藤原道長が拡張したお堂です。

堂内には祈親(きしん)上人が献じた祈親燈(きしんとう)、白河上皇が献じた白河燈、貧女の一燈(いっとう)、昭和時代に献じられた昭和燈が「消えずの火」として燃え続けています。 内部は、1万6千余りの燈籠に埋め尽くされています。

弘法大師御廟

奥の院の最深部に建つ弘法大師御廟は、壇上伽藍と並んで高野山の信仰の中心となってきた聖地です。

弘法大師・空海は現在でも、ここで生身のまま禅定に入っていると信じられています(入定伝説)。

金剛峯寺奥院経蔵

弘法大師御廟の右側(東側)にある木造建築は、1599年に建てられた歴史的建造物で、「金剛峯寺奥院経蔵」または「一切経蔵」と呼ばれます。重要文化財であり、世界遺産の登録資産です。

「金剛峯寺奥院経蔵」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 「高野山奥の院の世界遺産」で戦国武将の素顔を探る(金剛峯寺奥院経蔵)

奥の院ルート案内 (弘法大師御廟~手水舎)

奥の院(弘法大師御廟~手水舎)

弘法大師御廟から、駐車場やバス停に向かう近道が、参道よりも東側の川沿いにあります。この道沿いには英霊殿や災害の犠牲者のための慰霊碑、親鸞上人霊屋などがあります。

阪神・淡路大震災物故者慰霊碑

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。その犠牲者6434人のための慰霊碑です。

英霊殿に向かう分岐の辺りにあります。毎年、1月17日に追悼法会が営まれています。

東日本大震災物故者慰霊碑

「阪神・淡路大震災物故者慰霊碑」よりもやや南に、2011年3月11日に発生した東日本大震災の犠牲者のための慰霊碑があります。

こちらも毎年、3月11日に追悼法会が営まれます。

英霊殿

密厳堂の先、参道を右にそれた場所に建つ英霊殿は、昭和27年(1952年)、第二次世界大戦の戦死者を供養するために建立されました。

春の桜や秋の紅葉が美しい場所です。

親鸞上人霊屋

東日本大震災物故者慰霊碑からさらに南へ、駐車場に向かって進むと、右手(駐車場から来た場合は左手)の少し高くなっている場所に「親鸞上人霊屋」があります。

「浄土真宗の宗祖」親鸞

与謝野晶子歌碑

中の橋駐車場から奥の院に入っていく参道沿い、親鸞の墓所の南東に、ロマン派の女流歌人、与謝野晶子の歌碑があります。 実はこの短歌は、もし江戸時代の僧侶が見たらびっくりしてしまうような、官能的な内容です。

「与謝野晶子歌碑」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 これはさすがに刺激的すぎるのでは…「与謝野晶子歌碑」

しろあり慰霊碑

親鸞上人霊屋から、さらに川沿いを進むと分岐があります。この分岐の近くに、 しろあり やすらかに ねむれ との言葉が刻まれた「しろあり慰霊碑」があります。

公益社団法人日本しろあり対策協会が立てたもので、「人間生活と相容れないために駆除されたシロアリ」と、「シロアリ防除に携わってきた功労者」の双方を合祀して供養しているとのことです。 自分たちの生活を脅かす生物にどう対処するか、というのは仏教の難題であり続けたものと思われます。仏教には「不殺生戒(ふせっしょうかい)」という戒律があるからです。 不殺生戒とは自分が手にかけることを戒める他人に手をかけさせることを戒める不殺生戒の「随喜同業」とは武士にとっての「不殺生戒」「不殺生戒」と江戸時代の職業差別「しろあり慰霊碑」が提示する選択肢

奥の院ルート案内 (手水舎~一の橋)

しろあり慰霊碑の近くの分岐で、左の道を進むと車道に出ます。その手前には手水舎があります。「中の橋駐車場」や「奥の院前バス停」から奥の院に入る人たちのための手水舎です。 ここで奥の院めぐりを終わってもいいのですが、時間と余力があれば、手水舎から川の右岸に沿った道を歩いて、一の橋のほうに戻ってみましょう。

奥の院(手水舎~一の橋)

中の橋がある川を渡って、さらに一の橋の方へ川沿いを進むと、空海が開創する以前の高野山についての伝承が残る供養塔があります。距離でいうと、吉川元春や武田信玄の供養塔に近い場所で、道から少し右側(北側)に入ります。

蛇柳供養塔(蛇柳跡)

これは蛇柳供養塔、または蛇柳跡と呼ばれています。 この供養塔には、高野山の僧侶たち自身もさまざまな「業」を背負ってきたことを示す、ある歴史が秘められています。

「蛇柳供養塔(蛇柳跡)」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 蛇柳供養塔(蛇柳跡)と空海の大蛇退治蛇柳は石子詰めの処刑場だった?「義人・戸谷新右衛門」の処刑過去の「悪行」をあえて伝え続けてきた高野山

関東大震災供養塔

一の橋に戻る手前、司馬遼太郎文学碑の少し南東にあるのが、1923年9月1日に発生した関東大震災の供養塔。7年後の1930年、当時の東京市長が私財を投じて建てたものです。