九度山-空海の母と真田父子が滞在した高野山麓の里-
高野山の麓にある九度山は、空海の母にゆかりの寺、慈尊院がある場所。高野山参拝・観光を始めるスタート地点の有力候補です。 また九度山は、信州上田城主・真田昌幸とその息子、真田信繁(幸村)が住んでいた場所でもあります。彼らは二度に渡って徳川の大軍を退けながらも、関が原で西軍が敗れたため、やむなく屈してここに蟄居させられたのです。その屋敷跡は「真田庵」と呼ばれ、真田昌幸の墓や資料館があります。 出発地は南海高野線の九度山駅。ここから慈尊院までは1.5キロメートルほどです。まっすぐ向かえば30分で着きますが、時間に余裕があれば、九度山の町を散策して、真田昌幸と「真田幸村」の父子がどんなことを考えながら雌伏していたのか、思いを馳せてみるのもいいでしょう。
九度山駅
橋本から南海高野線に乗って11分ほどで、九度山に到着します。 反対側のホーム(橋本方面)には、「九度山真田花壇」があり、「真田幸村と十勇士」のイラストが描かれています。関ヶ原の戦いから大阪冬の陣までの14年間、真田信繁が臥薪嘗胆の生活を送った場所ということで、「真田幸村の町」としてアピールしているようです。
和歌山県九度山町の人口は5000人弱。丹生川と紀ノ川の合流地点に位置し、甘柿の一種・富有柿の産地です。 コンビニは、国道370号を橋本方面に500メートルほど行った場所にあります。
対面石
九度山駅から坂を下って行くと、すぐに国道370号との交差点(五差路)に出ます。正面に見える橋を渡ってまっすぐ行くと慈尊院ですが、橋のすぐ手前を右折して商店街に入ると、旧高野街道の静かな道をたどって行くことができます。 丹生川を左手に見ながらしばらく進むと、「対面石」と呼ばれる石があります。「紀伊続風土記」には、「弘法大師が槇尾明神と対面せし処」と記されています。 槇尾明神は和泉国の霊峰・槇尾山の神です。槇尾山と空海との関わりは深く、槇尾山寺(施福寺)で空海が出家した寺だという言い伝えもあります。あるとき、高野山から槇尾山に向かおうとしていた空海が、紀ノ川が増水して渡れず困っていたところ、ここに槇尾明神が現れてと渡河を助けてくれた、または「ここに私を祀れば槇尾山に行かなくても良くなる」と言ったというのが謂れです。 明治以降は、空海が母と対面した場所とも言われるようになりました。
旧萱野家(高野山眞蔵院の里坊)
対面石から少し奥に入ると、「旧萱野家」と呼ばれる建物があります。江戸時代に高野山眞蔵院の里坊として建立されました。 里坊とは人里における僧侶の住まいのことで、隠居した老僧などが暮らしていました。明治以降は民家(萱野家)になりましたが、高野山の里坊が現存する貴重な建築です。
真田古墳
旧高野街道を進むと、すぐに三叉路に出ます。左の道を下っていくと、左側に「真田古墳」と呼ばれる遺跡があります。 柵の中をのぞくと石に囲まれた穴があり、かつては「真田幸村が大阪城入城のため、九度山を脱出する時に使った抜け穴」と信じられていました。昭和28年の調査で、古墳時代後期(6世紀)の円墳であることが分かったようです。
真田庵(善名称院)
真田古墳から更に道を下り、道なりに進むと、蕎麦屋の「幸村庵」があります。その先にあるのが、高野山真言宗の尼寺・善名称院です。 ここは真田父子の屋敷跡と伝えられ、真田昌幸の墓があることから「真田庵」とも呼ばれています。
九度山の真田昌幸と信繁(真田幸村)
真田昌幸(1547~1611)は信州の戦国武将で、もともと武田勝頼の家臣でした。武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変によって信州は空白地となりましたが、昌幸は北条、徳川、上杉という大勢力に狙われながらも、権謀術数と巧みな戦術で独立を保ちました。1585年と1600年の二度にわたって、徳川の大軍を撃退したことで知られています。小田原北条氏が滅亡するきっかけを作ったのも、真田昌幸でした。
関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが、東軍についた長男・信幸の助命嘆願で死罪は免れ、次男の信繁とともに高野山に流罪となりました。 真田父子は高野山上ではなく、この九度山に住むことになりましたが、その理由は信繁が妻を連れていたこと(当時の高野山上は女人禁制)とも、いったんは高野山上の蓮華定院に入ったものの、山上の生活が寒すぎて昌幸には辛かったためとも言われています。 父子が暮らしていたのは、この真田庵のある場所、または旧萱野家の付近と考えられています。 蟄居中の真田一族は、平べったく丈夫な紐を作って生計を立てていたようです。このような紐は当時、甲冑の材料として全国で作られていましたが、後に「真田が作った丈夫な紐」ということで「真田紐」と呼ばれるようになりました。サナダムシの名前も、この紐に似ていることに由来しています。他にも、高野山周辺で奈良時代から伝わる高野紙も作っていました。 11年後、昌幸はこの地で亡くなりましたが、信繁は1614年に九度山を脱出、豊臣方として大阪城に入城し、大阪の陣で活躍しました。なお、「幸村」という諱は江戸時代の軍記物で広まった名前で、本人は少なくとも大阪城入城の時点では「信繁」と名乗っています。
善名称院の由来
真田昌幸は、長男の信之(信幸から改名)によって信州松代で火葬され、上田の菩提寺に納骨されたと記されていますが、この真田庵にある宝篋印塔も、真田昌幸の供養のために信繁が建てたものとされています。 江戸中期の寛保元年(1741年)、九度山出身の僧侶、戒円(のちの大安上人)がこの供養塔の所に来た時、「ここに寺を建てよ」とのお告げを得て地蔵尊を安置しました。 その後、寺では真田昌幸の霊がたびたび現れたため、その霊を慰めるため、大安上人は昌幸を土地の守り神として祀りました。これが真田地主大権現です。権現とは、「仏が仮の姿として神になっている」という、神仏習合の考え方です。 徳川の世でありながら、神君家康(こちらは東照大権現)を散々苦しめた真田昌幸を神として祀ることができたのは、幕府も昌幸の怨霊を恐れていたからかも知れません。
真田庵の建築物と遺構
現在の真田庵には、城閣のような八つ棟造りの本堂を中心に、鐘楼のある門、大安上人の廟である開山堂、弥勒菩薩の土砂堂、真田地主大権現、真田昌幸と真田信繁(幸村)の墓、真田一族と家臣の墓、真田宝物資料館、与謝蕪村の句碑、雷封じの井などがあります。
真田宝物資料館には、真田父子が愛用したと伝わる武具、書状、肖像画、真田紐、高野紙製造用具が展示されています。
松山常次郎記念館
旧高野街道沿いには、九度山出身のクリスチャン政治家、松山常次郎の記念館があります。 松山常次郎(1884-1961)は、朝鮮での水田開拓事業で成功を収めたのち、衆議院議員となりました。1941年、日米開戦を阻止するためキリスト教平和使節団を組織して渡米しましたが、目的を果たすことはできませんでした。戦時中に海軍政務次官を務めたことから、戦後GHQによって公職追放を受けました。 また、戦時中は日本基督教団財務局長として、キリスト教と国家神道との教義のすり合わせに苦慮し、キリストの再臨(世界の終わりの日にキリストが再び地上に降りてくるという信仰)を否定しました。 松山常次郎の長女、美知子氏は日本画家・平山郁夫氏の妻であり、記念館には松山常次郎の遺品や資料の他、平山郁夫氏の絵画も展示されています。
仏師能光尊
丹生川を渡って慈尊院へ向かう途中に、「仏師能光尊」の墓所があります。 能光尊は平安後期、鳥羽法皇の時代の仏師です。九度山に住み、高野山中門の多聞、持国の二天王など、多くの仏像を彫りました。 頭部(首から上)を病む人にご利益があると言い伝えられています。
慈尊院
慈尊院は、高野山の中でも特に重要な寺院の一つです。 空海が高野山開創の際、その表玄関として創建した伽藍であり、高野山全体の庶務を司る寺務所(政所)や、山上が雪に閉ざされる冬季の修行の場としての役割もありました。
「慈尊院」についての詳細は、以下にまとめてあります。 「九度山」の由来になった空海と母の伝説「高野政所」が伝える「自治国家・高野山」「弘法大師伝説」ゆかりの本尊・弥勒仏坐像女性のための高野山「女人高野」空海を先導した犬の再来?「案内犬ゴン」
丹生官省符神社
高野山町石道は、慈尊院境内の西側にある石段から始まります。石段の上は、高野山領の守り神だった「丹生官省符神社」です。
石造鳥居と第百八十町石丹生官省符神社の成り立ち丹生官省符神社の社殿「元寇」の時代を伝える「第百七十九町石」
勝利寺
丹生官省符神社のすぐ先、右手にある急な石段を登ると、空海の厄除け寺「勝利寺」と、「高野紙」の資料館「紙遊苑」があります。
「高野山開創前の寺」勝利寺空海が製法を伝えた?「高野紙」の資料館・紙遊苑 次のページ空海と母の物語を伝える「女性のための高野山」慈尊院