慈尊院(九度山)-空海と母の物語を伝える「女性のための高野山」-

慈尊院は、弘法大師・空海が高野山を開創する際、その表玄関として創建しました。高野山の中でも特に重要な寺院の一つです。 高野山全体の庶務を司る寺務所(政所)や、山上が雪に閉ざされる冬季の修行の場としての役割もありました。 空海の母に対する思いを伝える「女人高野」としても知られています。

慈尊院

「九度山」の由来になった空海と母の伝説

慈尊院

空海の母・玉依御前(阿刀氏)が高野山を見にやってきたものの、山上は女人禁制で入れなかったため、この場所に滞在していたことでも知られています。 空海は1ヶ月に九度の頻度で、高野山町石道を歩いて母に会いに来たと言われ、それが「九度山」という地名の由来となりました。

「高野政所」が伝える「自治国家・高野山」

江戸時代までの高野山は多くの寺領を持ち、中央政界に対する影響力も持っていました。慈尊院はその事務、庶務、政務を取り仕切る寺務所であり、「高野政所(こうやまんどころ)」と呼ばれていました。 「政所」とは公家や幕府の家政、政務、財政を司った機関ですが、「高野政所」も寺領からの年貢の徴収、外部との折衝を行なっていました。慈尊院は、中世から近世にかけて「自治国家」でもあった高野山の「首都」だったのです。

「弘法大師伝説」ゆかりの本尊・弥勒仏坐像

慈尊院の本尊は、木造弥勒仏坐像です。空海の入定から57年後の寛平4年(892年)に作られました。平安時代初期の彫刻として貴重な像であり、国宝に指定されています。空海の命日が21日であることから、開扉は21年に一度とされています。 弥勒菩薩が安置されている本堂(弥勒堂)は鎌倉時代後期の宝形造で、重要文化財に指定され、世界遺産としても登録されました。

弥勒菩薩(マイトレーヤ)は釈迦の次に仏陀となることを約束された修行者(菩薩)です。菩薩は人々に寄り添って修行し、教えに導くということから庶民から熱心に信仰されました。弥勒菩薩の兜率天に往生しようと願う信仰は、「上生信仰」と呼ばれています。 戦国時代から江戸時代にかけては、弥勒仏がもうすぐこの世に出現するという「下生信仰」が流行しました。弥勒踊り、富士信仰、百姓一揆などは弥勒思想に強く影響されています。 この「弥勒下生信仰」は、空海が弥勒仏と一緒にやってくるという「弘法大師伝説」とも深い関わりがあります。

女性のための高野山「女人高野」

空海の母、阿刀氏も弥勒菩薩を篤く信仰していました。阿刀氏が亡くなった時、空海の夢に弥勒菩薩が現れたため、空海は母が弥勒菩薩に化身したと考え、自ら弥勒菩薩像と廟堂を作って母の霊を祀りました。 弥勒とはもともと「慈しみ」を意味し、弥勒菩薩は「慈尊」という別名があります。そのため、高野政所は「慈尊院」とも呼ばれるようになりました。 阿刀氏が弥勒菩薩となったことから、慈尊院は女性が仏法と縁を結ぶ(女人結縁)寺として知られ、山上には入れない女性のための高野山参りの場所、「女人高野」として信仰されました。 なお、同じく真言宗の山岳寺院、室生寺(奈良県宇陀市)も、女性の参詣が許されていたため「女人高野」の別名があります。

空海を先導した犬の再来?「案内犬ゴン」

慈尊院の境内にある弘法大師像の隣には、イヌの像が並んでいます。

ゴンの碑

弘法大師・空海は紀州犬に案内されて高野山を発見したという伝承がありますが、このイヌはその紀州犬ではありません。昭和60年台に実在した紀州犬と柴犬の雑種、ゴンです。 ゴンはもともと野良犬でしたが、慈尊院の鐘の音によく反応したため、「ゴン」と呼ばれて親しまれていました。いつしか高野山町石道を歩く人々を案内するようになったため、空海を案内した紀州犬の再来ではないかとも言われ、慈尊院の飼い犬となりました。 次のページお寺の領土を神様が守る?「丹生官省符神社」