丹生官省符神社(高野山町石道)-お寺の領土を神様が守る?-

高野山町石道の入り口にある丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)は、慈尊院高野山の領土の守り神とされた神社です。 「寺の領土を守る」という奇特な神様が祀られているのです。

丹生官省符神社の位置(広域地図)

石造鳥居と第百八十町石

高野山町石道は、慈尊院境内の西側にある石段から始まります。ここから丹生官省符神社と勝利寺、紙遊苑に寄りながら、山道を登っていきます。 「丹生官省符神社」の石碑が立つ石段の途中には、石造りの鳥居が立っています。もともとは別の氏神の鳥居でしたが、氏神が丹生官省符神社に合祀されたため、大正10年にここに移設されました。

丹生官省符神社

そのすぐ右手には、最初の町石が立っています。慈尊院から壇上伽藍までの間には180の町石があり、壇上伽藍に近い方から番号がつけられているので、この町石は「第百八十町石」となります。

丹生官省符神社の成り立ち

石段を登り切ると、今度は赤い鳥居をくぐります。広場の向こうに、丹生官省符神社の社殿三棟が建っています。

丹生官省符神社は、空海が高野政所(慈尊院)の守り神として創建した神社です。 「官省符(かんしょうふ)」とは、寺田や神田などが不輸租田(租税を免除された田)であることを証明した書類のこと。官省符が発給された田は「官省符荘」という荘園となります。高野山にも、寺領として官省符荘が与えられました。 丹生官省符神社は、高野山が所有していた広大な寺領の鎮守とされました。もっとも、「丹生官省符神社」の社号がつけられたのは昭和21年のことで、それ以前は「官省符鎮守・神通寺七社」「神通寺七社明神」と呼ばれていました。 もともとは紀ノ川沿いにありましたが、紀ノ川は度々氾濫したため、室町時代の永正14年(1517年)にこの場所に移転されました。 空海が勧請した丹生明神(丹生都比売大神)、狩場明神(高野御子大神)の他に、大食都比売大神、市杵島比売大神、天照大御神、誉田別大神、天児屋根大神が祀られていて、明治末期には周辺の氏神も合祀されました。

丹生官省符神社の社殿

丹生官省符神社の拝殿は高野山に向かって拝むように設計されています。祭神は多いですが、高野山そのものが神であるともいえます。 拝殿の向こう側に本殿があり、もともとあった4棟のうち3棟が再建されています。2棟は室町時代(永正14年/1517年)の再建、1棟は安土桃山時代(天文10年/1541年)の再建です。 本殿3棟はこの地方の室町時代の神社建築の様式を伝える遺産であることから、重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されています。

「元寇」の時代を伝える「第百七十九町石」

丹生官省符神社の右手にある細道を下ると、2つ目の町石が現れます。 高野山町石道の町石の中でも特に古いもので、鎌倉時代中期の文永6年(1269年)に建立されました。モンゴル帝国から服属を求める使節が来訪し、北条時宗が執権に就任した文永5年の翌年です。 町石を建立した北条時茂は第6代執権、北条長時の弟であり、朝廷の監視役である六波羅探題北方を務めました。足利尊氏の曽祖父にもあたります。 次のページ空海が厄除けをした「高野山より古い寺」勝利寺