エストニアの歴史(2)-ドイツ騎士団~スウェーデン時代-

このページでは、エストニアの歴史のうち、ドイツ騎士団の時代からスウェーデンが支配した時代までをご案内します。

ドイツ騎士団

ドイツ騎士団(ドイツ人の聖母マリア騎士修道会)はもともと、十字軍のドイツ人戦士をパレスチナで保護するため、ブレーメンやリューベックの商人が資金を出して設立した病院修道会でした。 パレスチナで十字軍の勢力が弱まるとともにその意義を失った修道会は、1211年、ハンガリー王・アンドラーシュ2世から誘いを受けます。 トランシルヴァニアに所領を与えるから、ハンガリーの領土を異教徒から守ってくれないかというのです。 騎士修道会総長のヘルマン・フォン・ザルツァはその誘いに応じ、騎士団はハンガリー配下の封建君主となりました。 しかし、ザルファはやがてローマ教皇と結びつき、「自分たちの主人は教皇である」という名目でハンガリー王国からの独立を目指すようになります。その動きに激怒したアンドラーシュ2世は、教皇の圧力を無視し、修道会をトランシルヴァニアから追放しました。これが1225年のこと。 流浪の騎士団は、今度はポーランドのマゾフシェ公に招かれ、再び異教徒からの防衛を担います。ザルファはプルーセン人の平定を見返りに、その居住地域(プロイセン)を共有する権利を認められ、ついに国家の創設に成功します。 バルト海南岸のマリエンブルク(現在はポーランドのマルボルク)を本拠地とする宗教的共和国、「ドイツ騎士団国」です。

リヴォニア騎士団とハンザ同盟

デンマークからエストニア公国を買い取ったのは、ドイツ騎士団の分団「リヴォニア騎士団」です。 この頃、レヴァル(タリン)は西欧とノヴゴロドを結ぶ貿易の中継地として繁栄していました。デンマーク支配下の1285年にはハンザ同盟に加わり、ハンザ同盟最北の商業都市となっています。 騎士団によるキリスト教化に助けられて東方植民を始めたドイツ商人(バルト・ドイツ人)たちは、やがて騎士団の専権的な支配に反発し、ドイツのハンザ同盟都市のような自治を求めるようになります。 騎士団は1410年のタンネンベルクの戦い(ポーランド語でグルンヴァルトの戦い)でポーランド・リトアニア連合に大敗して以降、衰退の一途をたどります。 1517年に始まったルターの宗教改革は、かなり早い時期にエストニアにも伝わりました。1520年代には、エストニアはルター派の勢力圏に入っています。 1525年にはプロイセン地域の世俗化によって本家の騎士団が解体。何とか独立を維持していたリヴォニア騎士団も1560年、バルト海への進出を目指すイヴァン雷帝の新生ロシアに惨敗し、ポーランド・リトアニア連合に吸収されました。(リヴォニア戦争) リヴォニア戦争と、同時期の北方7年戦争の結果、エストラント(現在のエストニア北部)はスウェーデンに割譲され、リヴォニアはリトアニア大公国の一部となりました。

スウェーデン時代

戦争に勝利したスウェーデンは「バルト帝国」を築き、18世紀までこの地域を支配しました。 1632年にはスウェーデン王・グスタフ・アドルフによってタルトゥに最初の大学(ドルパット大学)が作られました。エストニア語が発達したのもこの頃です。スウェーデン・ポーランド戦争(1621~1629)などの戦禍もありましたが、その後のロシア・ソ連による支配の記憶が生々しいためか、「古き良きスウェーデン時代」とも呼ばれています。

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