エストニアの歴史(1)-民族の形成~デンマークの支配-
このページでは、エストニアの歴史のうち、民族の形成時期からデンマークの支配までをご説明します。 「エストニア」という国民国家が初めて誕生したのは、わずか1世紀前のこと。中世以来、エストニアはデンマークやドイツ騎士団、スウェーデン、そしてロシアと、他国の支配を受け続けてきました。 「エストニア」とはラテン語で「エスト人の国」または「東の国」。「東の国」という意味の国名は、他にオーストリア、シリア、日本がありますね。
民族の形成
エストニアには、紀元前9千年頃から人が住みはじめたと考えられています。 紀元前3千年ごろに東から移り住んできたフィン・ウゴル族が、先住民や東スラヴ人、ノルマン人と混血して「エストニア民族」を形成しました。 その後、西欧諸国とロシアに翻弄される歴史が始まります。
カトリック勢力の進出
この地域でのキリスト教化は遅く、西欧・北欧のカトリック勢力とロシア諸公国の正教との間に挟まれた「異教の楔」となっていました。 最初に勢力を広げたのはドイツのカトリック勢力です。 まず、ヴァイキングの交易路を受け継いだドイツ商人が進出してきました。 彼らは、現在のエストニア北部を「エストラント(ドイツ語で「東の土地」を意味する)」、南部からラトヴィアにかけての地域は「リーフラント(リヴォニア)」と呼びました。 ドイツからは宣教師も派遣され、エストニア人をキリスト教徒に改宗させようとしましたが、なかなかうまくいかず、ドイツ人とエストニア人・バルト人との軋轢は徐々に高まっていきました。
北方十字軍とデンマークの支配
1193年、教皇の呼びかけにデンマークやスウェーデン、ドイツ諸侯が応じ、エルサレムとは全く違う方向を目指す十字軍が始まります。バルト海沿岸の征服と植民を目的とした「北方十字軍」です。 1219年には、バルト海南岸で勢力を拡大したデンマーク王・ヴァルデマー2世がエストニアを征服。 その際に「トームペア」と呼ばれる要衝に築かれた要塞都市が、タリンの始まりです。(1918年のエストニア独立まで、タリンは「レヴァル」と呼ばれていました。タリンとはエストニア語で「デンマーク人の城」の意味) 因みに、エストニアの部族との戦闘の際に、神のお告げにより赤字に白十字のデンマーク国旗が初めて掲げられたという伝説が残っています。 抜け駆けで一人勝ちしてしまったデンマークはドイツ諸侯の反感を買い、1223年にヴァルデマー2世はシュヴェーリン伯(北ドイツ・リューベックの近くを支配した封建君主)に誘拐されてしまいます。 国王解放の条件として、デンマークはリューゲン島とエストニア北部を除く全ての海外領土を失いました。 デンマークは、レヴァル(タリン)を中心とするエストニア北部は引き続き保持し、属国として「エストニア公国」を建国しました。 その後、巨額の債務を抱えたデンマーク王室は深刻な財政難に陥り、領土のほとんどが借金の担保となるほどでした。 1346年、財政と国土の再建に取り組むデンマーク王、ヴァルデマー4世はエストニア公国の売却を決意します。売却の相手は、当時最盛期を迎えていたドイツ騎士団でした。 次のページエストニアの歴史(2)