- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

聖地の玄関口「大門」

- Zue Maps 高野山 -


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大門とは?

「大門(だいもん)」は、高野山(山上)の古くからの玄関口です。現在の建物は江戸時代の再建で、空海の思想を表した「阿吽」の仁王像が有名です。 ナビ地図で表示

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大門の地図と行き方

大門は、高野山・山上エリアの西端にあります。 最寄りのバス停は、「南海りんかんバス(千手大門線/高野山内線)」の「大門」停留所。駐車場は「お助け地蔵前駐車場」や「大門南駐車場」が近いです。

大門
大門(広域)


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大門観光のポイント

大門は、「大門」停留所など東側からアクセスすると裏側から見ることになります。まずは、正面にあたる西側から見るのがおすすめです。 大門は高さ25メートル、朱塗りの堂々たる楼門で、丹生都比売神に守られた高野山らしく、丹色(にいろ、赤色)で塗られています。 門の両脇にある仁王像や、柱に掛かっている対句(対聯)も見どころです。


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大門の略史

高野山創建当初の総門は、ここの場所ではありませんでした。ここから500メートルほど下った場所にある九十九折谷に建っていた鳥居が、寺院としての高野山の総門にもなっていたのです。仏教と神祇信仰(神道)、山岳信仰が一体となっていた時代ならではの構造です。 しかし、末法思想を背景に仏教がますます盛んになった平安末期の1141年、寺院建築としてこの場所に大門が建てられ、高野山の新しい総門になります。 鎌倉時代前半の1230年、二階建ての楼門となりました。

鎌倉時代末期の1313年、密教に傾倒し、自ら真言宗の高僧になった法皇として知られる後宇多法皇が、嵐の中、高野山町石道を輿も使わず歩いて登ってきたという記録がありますが、その際もこの大門をくぐって高野山に入ったと思われます。 戦国時代の1577年に火災に遭い、焼失。1604年、高野山の有名なリーダーの一人、木食応其によって再建されました。江戸幕府が始まった翌年のことですが、木食応其は豊臣秀吉と深い関係を築いていたため、豊臣秀頼からの寄進があったのでしょう。 その大門も、1688年に焼失。1705年に再建されました。1818年や1895年に屋根などの改修が行われ、1986年にも解体修理が行われましたが、基本的には、今見ることができる大門は1705年の再建のものです。 ただし、江戸時代には白い門だったのが、1986年の解体修理の際に丹塗りとなり、鎌倉時代のような赤い門となりました。

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大門の仁王像(金剛力士像)

この大門を有名にしているのは、左右に鎮座している巨大な仁王像(金剛力士像)。東大寺南大門の仁王像に次いで、国内で二番目の大きさです(高さ5.5メートル前後)。重要文化財に指定されています。

大門の仁王像(阿形)

仁王像の特徴は、筋肉などの写実的な描写。運慶・快慶の流れをくむ「慶派」の仏師たちが彫りました。

大門の仁王像(吽形)

「阿吽(あうん)」の形で一対になっていて、右が口を開けた阿形(あぎょう)、左が口を閉じた吽形(うんぎょう)です。


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「阿吽」の意味

「阿吽」とは、「阿吽の呼吸」と言われるように「呼吸」を意味することもありますが、世界のすべてを意味する真言でもあります。「阿」は梵字の最初、「吽」は最後の文字だからです。 真言密教では、根本経典の「大日経」では「阿」を大日如来、「吽」を金剛薩埵(大日如来に次ぐ第二祖)としている一方、もう一つの根本経典「金剛頂経」ではその逆になっていることから、「阿吽」は特に重要な意味を持っています。


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門の柱に掛かっている対句には何が書かれている?

主柱には、「日日影向文(にちにちようごうもん)」と呼ばれる対聯(たいれん・ついれん)が掛けられています。 対聯に書かれているのは、「日々の影向を闕かさず(弘法大師は毎日姿を現す)」「処々の遺跡を検知せん(人々のことを気にかけ、救済しようとしている)」という対句で、平安時代の僧侶が、空海の生まれ故郷である讃岐の善通寺での体験を書いた文章が出典です。 いつでもどこでも空海が一緒だよ、という「同行二人(どうぎょうににん)」のメッセージです。


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田村木国句碑

車道を渡った南側にある広場には、「田村木国句碑」という句碑があります。 田村木国は、20世紀前半に活躍した、和歌山県出身の俳人。新聞記者でもあり、夏の高校野球の創設者としても知られています。 石碑にかかれているのは、「山門を出でて秋日の谷深し」という俳句。大門から見た秋の風景を描写したものです。

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嶽弁財天社

大門の北側には、いかにも高野山らしい鳥居があります。

嶽山弁財天の鳥居

この鳥居をくぐって、山に登っていった先の祠にまつられているのは、空海が今の奈良県の天川村から連れてきたと伝わる山の弁財天「嶽弁財天社(だけのべんざいてんしゃ)」です。 山頂に鎮座する七弁天の代表格「嶽弁天社」