金剛峯寺(高野山)-アクセス・見どころの案内・歴史解説-
「金剛峯寺(こんごうぶじ)」は、高野山真言宗の総本山の寺院です。宗教都市・高野山の中枢であるだけでなく、平安時代や安土桃山時代の出来事を伝える歴史的にも貴重な史跡です。 金剛峯寺への行き方や拝観案内、主な見どころ、歴史背景などを解説します。
金剛峯寺への行き方
金剛峯寺は、高野山の中心部にあります。 最寄りのバス停は、「南海りんかんバス(千手大門線/高野山内線)」の「金剛峯寺前」停留所。駐車場も「金剛峯寺前駐車場」が近くにあります。
金剛峯寺の拝観料と入場時間は?
金剛峯寺の拝観料は1000円(一般料金)。拝観時間は午前8時半から午後5時までとなっています。
金剛峯寺の拝観データ
拝観料:1000円(中学生以上) 300円(小学生) 拝観時間:午前8時半から午後5時(17時)まで 拝観受付終了時間:午後4時半(16時半) 諸堂共通内拝券:2500円(金剛峯寺、金堂、根本大塔、徳川家霊台、高野山大師教会授戒料の共通券) 問い合わせ先:0736-56-2011(金剛峯寺) 公式サイト: 金剛峯寺とは
「金剛峯寺」観光のポイント
金剛峯寺は、「主殿」を中心とする東側のエリアと、「奥殿」を中心とする西側のエリアに分かれています。 この敷地の構造は、かつての高野山の僧侶たちが「宗教(宗務)を担う僧侶(学侶)」と「政治を行う僧侶(行人)」に分かれ、それぞれ派閥を形成していた名残です。 「奥殿」がある西側エリアには巨大な石庭「蟠龍庭」がありますが、この庭園や奥殿などの建物は昭和に入ってからつくられたもの。 建築や美術、風景を堪能するのであれば、「主殿」とその襖絵、奥殿エリアにある蟠龍庭が主な見どころになります。蟠龍庭は紅葉の名所の一つでもあります。 歴史的な価値でいうと、安土桃山時代の姿を残す「正門(表門)」がメインスポットになりますが、主殿が建つ場所そのものも重要な史跡です。
正門
壇上伽藍の方面(南側)から参道を進むと「正門(表門)」があります。これは1593年(文禄2年)、つまり豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(高麗陣)の前半、文禄の役が休戦となった年です。 1593年は豊臣秀頼が生まれた年でもありましたが、このことは当時の関白、豊臣秀次の運命を暗転させることになります。 かつては、この門を通ることを許されたのは天皇や皇族などに限られていましたが、「太閤」秀吉もくぐったことでしょう(1594年に秀吉は高野山に登り、この門の先で母の供養をしています)。
経蔵
表門をくぐると、主殿の正面に出ます。この右奥に拝観入口がありますが、その前に左側(西側)手前にある「経蔵」と右側(東側)手前にある鐘楼を見てきましょう。 金剛峯寺の経蔵は、江戸時代初期の1679年(延宝7年)、大阪の商人の寄進によって建てられたもの。お経などを保管する大切な場所であり、周辺で火事が起きた際もまっさきに守られたため、当初の姿で残されています。
鐘楼
鐘楼のほうは、1860年の大火で焼けてしまい、江戸時代末期の1864年に再建されたものだと考えられています。 建築形式は「袴腰付入母屋造(はかまごしつきいりもやづくり)」。 「袴腰」とは、下半分の末広がりの台形部分のこと。鐘楼や鼓楼ではよく見られますね。 「入母屋造」は屋根の形式で、切妻造(2つの方向への勾配がある)と寄棟造(4つの方向への勾配がある)を組み合わせた、最も格式が高い形式です。 いろんな建築様式を贅沢に組み合わせたこの鐘楼は、和歌山県の指定文化財となっています。
主殿の玄関
金剛峯寺の主殿には二つの玄関があります。大玄関と小玄関です。 大玄関の手前には囲いがあり、通常では使用されないようになっています。かつての正門と同じように、天皇や皇族、高野山の重役でなければ、ここから入ることは許されないのです。 その隣りにある小玄関も、高野山の幹部(上綱職)専用の入り口であり、一般の僧侶や観光客は入ることができません。 金剛峯寺主殿の格式の高さ(または敷居の高さ?)を感じますね。
主殿の文化的価値
宗教的には、高野山でも最重要の建物の一つである金剛峯寺主殿ですが、文化財として見た場合はどうでしょうか? 実は主殿の建物そのものは、幕末(明治が始まる5年前)の1863年に再建されたもの。高野山には平安時代や鎌倉時代の建物がいくつも残っているので、それらに比べるとだいぶ新しい建築です。 しかし見方を変えれば、近世最後の建築の一つであり、日本建築(または東アジア建築)の集大成ということにもなります。 また、屋根の上に設置されている天水桶(火災に備えて雨水を貯める桶)は、高野山の建築群が何度も火災に見舞われてきたことの象徴とも言えるでしょう。 内部には、室町時代の絵師、狩野元信や江戸時代初期の絵師、狩野探幽、江戸時代中期の絵師、山本守礼が描いたとされる襖絵があります。火災の際も、襖絵は運び出されて無事だったのです。 この絵師たちの中で特に著名なのは、「余白の美」を追求した狩野探幽です。「梅の間」の襖絵の正面右側はほとんどが余白となっており、左側の梅の木とのバランスが絶妙です。
史跡としての主殿
史跡としての主殿は、建物や襖絵よりも、この場所そのものが重要です。ここは空海の入定直後から、様々な高僧や権力者たちによる闘争が繰り広げられた場所でした。 その歴史は、高野山における空海の後継者、真然が拠点(住坊)にしたことにさかのぼります。真然は、高野山を真言宗全体の本山にもしようと考えていたようです。そして空海が唐から持ち帰った秘法の経典集「三十帖冊子」を東寺から借りだし、高野山に保管したままにしました。 当然、返却要請を断られた東寺は怒ります。これがきっかけで東寺と高野山の対立が激化しました。結局、この「本末争い」は朝廷に近い東寺が勝利。高野山は落雷で伽藍を焼失したこともあり、一時衰退することになります。 この真然の無念を晴らそうとしたのが、平安時代後期の高僧、覚鑁(興教大師)です。 真然の没後、この場所にはその廟所があったようですが、真然を尊敬していた覚鑁は真然廟を裏山(阿弥陀峰)の山腹に移し、ここには「大伝法院」という教育機関を作りました。覚鑁は、教育を充実させることで高野山を学問の拠点とし、東寺からの独立を図ろうとしたのです。しかしこの改革も、反対派によって挫折を余儀なくされました。
豊臣秀吉と「青巌寺」「興山寺」
こうした経緯を持つ「大伝法院跡」に注目したのが豊臣秀吉です。島津氏との和睦交渉などで活躍した木食応其(もくじきおうご)の存在もあり、高野山の影響力を強く感じていた秀吉は、高野山を積極的に保護することにしました。 そして1590年、木食応其は秀吉の支援を受けて、大伝法院跡の西側の敷地に「興山寺」という寺院を開基します。興山寺は後陽成天皇の勅額も掲げられた勅願寺(国家安泰・皇室繁栄などを祈る寺)ともなり、大伽藍が建ち並びました。 こうした経緯もあり、興山寺は高野山領で世俗的な(主に政治・行政的な)業務にあたる行人方(ぎょうにんがた)と呼ばれる僧侶たちの拠点になります。 さらに秀吉は、東寺が所有する宝物の多くを興山寺に移すよう命じます。真然や覚鑁の悲願が、一部達成されたのです。 さらに秀吉は、1592年、興山寺の東隣に母・大政所の菩提寺を作ることにします。こうして開基された「剃髪寺」は後に「青巌寺」と改称され、密教の研究や祈祷などの宗務を担う「学侶(がくりょ)」たちの拠点となりました。
関白秀次自刃の間
そして、ここで起きた出来事で最も知られているのが、「関白・豊臣秀次の切腹」です。秀吉の後継者として関白に就任した秀次でしたが、秀吉の嫡子・拾(後の秀頼)が誕生してからは立場が悪化し、高野山での蟄居に追い込まれました。その後の経緯については諸説ありますが、秀次は青巌寺の「柳の間」で切腹することになります。 現在の金剛峯寺主殿にも「柳の間」があり、「関白秀次自刃の間」と呼ばれています。主殿は幕末の再建なので建物は変わっていますが、場所や部屋の構造、襖絵などは当時と同じなのでしょう。
明治政府と金剛峯寺
1869年(明治2年)、「寺院による統治」を根絶しようとした明治新政府の政策により興山寺は廃寺となり、青巌寺に吸収合併されました。こうしてできたのが「金剛峯寺」です。 興山寺の建物は残っていませんが、東の「主殿エリア(かつての青巌寺)」と西の「奥殿エリア(かつての興山寺)」に分かれている敷地の構造が、高野山で繰り広げられた様々なドラマの名残となっています。
奥殿エリアと蟠龍庭
興山寺の跡地は、しばらく高野山大学や高野山中学のキャンパスとして使われました。覚鑁の大伝法院を受け継ぐ学問の地となっていたのです。 そして弘法大師入定から1100年となる1934年(昭和9年)、貴賓室として奥殿(おくでん)が建てられます。奥殿は一部の人しか入れませんが、一般信徒の休憩所、または宗団の会議所として別殿(べつでん)も建てられました。 その50年後の1984年(昭和59年)には参詣者の接待所として新別殿(しんべつでん)も建てられます。この際、蟠龍庭(ばんりゅうてい)と呼ばれる石庭も造園されました。2,340平方メートルの面積を持つ蟠龍庭は国内最大級の石庭で、金剛峯寺観光の目玉の一つになっています。
その他の見どころ
金剛峯寺にあるその他の主要な見どころは以下になります。
真松庵
真松庵(しんしょうあん)は、1965年、松下幸之助氏が寄贈した茶室で、蟠龍庭の隅にあります。
新書院
新書院(しんしょいん)も蟠龍庭に面した建物で、1971年に昭和天皇・皇后が宿泊しました。
阿字観道場
1967年に建てられた瞑想の道場です。阿字観(あじかん)とは密教の瞑想法のことです。 参考: 高野山で体験 (金剛峯寺外部サイト)
書院(上段の間)
書院は高野山真言宗の儀式で使われる建物です。上段の間は総金箔のぜいたくな造りになっているのは、かつて天皇や上皇を迎える部屋だったためです。
稚児の間
もともとは上段の間で休む天皇たちの警護役が番をした部屋で、後に地蔵菩薩を奉安する部屋になりました。
中庭
「上段の間」から見ることができる庭園で、江戸時代に作庭されたものです。
奥書院
こちらもかつては皇族の休憩所で、現在は密教の儀式で使われる部屋になっています。
土室
土室(つちむろ)は高野山の厳しい冬を耐えしのぐために、土壁で囲んで防風効果・保温効果を高めた部屋です。部屋には囲炉裏があります。
台所
僧侶たちの食事を作る場所で、江戸時代から使われていました。かまどは現在も使われています。