- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

壇場伽藍(壇上伽藍)

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高野山・壇場伽藍(壇上伽藍)の観光・参拝ルートを、オリジナルの地図でご案内します。 壇場伽藍は、右肩を金堂の仏像に向け、時計回り(右回り)で巡るのが正式な参拝です。これは右手を清浄とする(浄手)インドから伝わった礼拝で、右遶(うにょう)といいます。 なお、ギリシャ文明は仏教と同じ時計回りの文化ですが、ローマ文明とそれに続くキリスト教は反時計回り(左回り)の文化だそうです。

壇場伽藍(または壇上伽藍)とは

壇場伽藍(だんじょうがらん)は、空海が高野山開創の際に最初に伽藍を建てた場所です。 「壇場」とは、「壇(修法壇や戒壇など)」を設けてある場所という意味。「伽藍」は寺院群のことですが、もともとは「清浄な修行の場所」という意味のサンスクリット語に由来した言葉です。「修法(密教の加持祈祷)を行う清浄な場所」ということで「壇場伽藍」と名づけられたのだと考えられます。 今は「壇上伽藍」と表記されることのほうが多いです。「他の場所よりも高い(つまり神聖な)壇の上」でもあるので、こちらも間違いではないと思われます。もともと難しい漢字なので、こちらのほうが親しみやすいですね。

中門

壇場伽藍の入り口には、五間二階の楼門・中門(ちゅうもん)が建っています。 江戸時代末期の天保14年(1843年)に焼失し、礎石を残すのみとなっていましたが、高野山開創1200年の2015年に再建されました。 ここは壇場伽藍の結界にあたるため、守護像として、四天王(持国天、毘沙門天、増長天、広目天)が祀られています。江戸時代の焼失時に救出された持国天と毘沙門天に加えて、再建後は増長天と広目天が新たにつくられされ、四天王像がそろいました。

金堂

中門のすぐ奥に建つ大きな建物は、昭和7年(1932年)に再建された金堂です。

金堂

金堂は平安時代から高野山の総本堂であり、高野山開創時は講堂と呼ばれていました。 平安時代末期の保元元年(1156年、「保元の乱」が起きた年)には、平清盛が巨大な両部曼荼羅を金堂に寄進しました。 「平家物語」には、平清盛が自らの頭の血を使って胎蔵曼荼羅の中尊像を描かせたと記されています。そのため、この曼荼羅は「血曼荼羅」として知られています。 この「血曼荼羅」は重要文化財で、実物は高野山霊宝館に収蔵されています。金堂には、その模写が展示されています。 現在の建物は7度目の再建ですが、建築と本尊、壁画などに近代日本の最高水準の技が凝縮されています。 金堂の建築は、武田五一(たけだごいち、1872-1938年)が設計した鉄骨鉄筋コンクリート構造の入母屋造(いりもやづくり)です。武田五一はアールヌーボーなどのデザインを日本に紹介した、近代日本を代表する建築家の一人です。国会議事堂の設計や法隆寺、宇治平等院の修復に関わりました。 入母屋造とは、屋根が二段になっている建築様式のこと。上段が切妻造(きりづまづくり)、下段が寄棟造(よせむねづくり)です。 切妻造の屋根(切妻屋根)は、傾斜が二方向にしかなく、本を伏せたような形をしています。「妻(屋根の棟と直角な面)」を切断したように見えることから切妻造といい、換気に優れています。日本では仏教渡来以前からよく使われてきた様式で、そのため神社の本殿もほとんどは切妻造です。 寄棟造の屋根は、四方向に傾斜しています。寄棟、または四注(しちゅう)ともいい、もともとは東日本に多かったことから「東屋」(あずまや)とも呼ばれました。雨の流れが良く、日本では切妻造に次いで多い様式です。 切妻造と寄棟造を組み合わせた入母屋造は風格がありますが、複雑かつ重量があるため、しっかりした骨組みや雨漏り対策が必要になります。そのため重厚な造りとなり、格式の高い建物に使われる様式です。寺院建築の多くは、寄棟造か入母屋造で造られています

金堂

金堂の本尊は、高村光雲(たかむらこううん、1852-1934年)が彫った薬師如来像で、秘仏です。 高村光雲は、木彫の彫刻に写実主義を取り入れるなど、日本彫刻の近代化に貢献しました。東京・上野公園の西郷隆盛像や皇居外苑の楠木正成像、シカゴ万博に出品した老猿(重要文化財)を作ったことでも知られています。 金堂内部の壁画(「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」)は、日本画家の木村武山(きむらぶざん、1876-1942年)による作品です。木村武山は、壮麗な花鳥画・仏画で知られ、「院展」で知られる日本美術院の中心画家の一人です。 菩薩像は、こちらが移動しても視線が追ってくるように描かれています。

登天の松

金堂の西側の広場には、「登天の松(とうてんのまつ)」という松があります。 平安時代末期の久安5年(1149年)、高野山の高僧・如法(にょほう)上人がこの松から弥勒菩薩の浄土へ昇天したとされます。

杓子の芝

松の下に生えている芝は「杓子の芝(しゃくしのしば)」です。 如法上人が天に登る際、「小如法」という弟子が斎食の準備をしていましたが、師の昇天を見て、そのまま後を追いました。 その時に小如法が持っていた杓子が落ちたことから、松の周りに生えている芝は「杓子の芝」と名づけられました。

六角経蔵

金堂の南西に建つ小さな塔は、平安時代末期、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために建立した「六角経蔵」です。

六角経蔵

美福門院と高野山

美福門院は鳥羽法皇の后として権勢をふるった女性で、保元の乱の原因を作ったと言われています。 一方で美福門院は高野山に深く帰依しており、この経蔵に納める一切経のため、紀州荒川の荘園を高野山に寄進しました。このことから、六角経蔵は「荒川経蔵」とも呼ばれています。 美福門院は鳥羽法皇の遺言に背いてまで、自らを高野山に葬るよう切望しました。女人禁制の高野山は反発しますが、この寄進の効果があったためか、例外として納骨が許されました(不動院境内の美福門院陵)。

六角経蔵の回転

現在の六角経蔵は昭和9年(1934年)の再建で、少し高くなっている基礎の上に把手がついています。力がいりますが、ここを押すと回転できるようになっています。

時計回りで一回りすると一切経を読んだのと同じ功徳を得られるとされます。チベット仏教のコルラ、またはマニ車と似た意味合いです。 美福門院が納めた一切経(紺紙金泥一切経・重要文化財)は現在、高野山霊宝館が収蔵しています。

閼加井

六角経蔵の裏に柵と門があり、標識には「閼加井門」と書かれています。 閼加井(あかい)とは、仏に供える水を汲む井戸のことです。

山王院

六角経蔵の右奥にある入母屋造りのお堂は、明神社の拝殿として建てられた「山王院(さんのういん)」です。 山王とは高野山の土地の神のことであり、山王院は明神社に祀られている丹生明神、高野明神(狩場明神)を礼拝する場所となっています。

明神社(左)と山王院(右)

山王院では毎年、竪精論議や御最勝講などの行事が催されます。丹生明神、狩場明神への法楽として、月次門徒・問講の法会も行われています。 桁行21.3メートル、梁間7.8メートルの細長い建物は、安土桃山時代の文禄3年(1594年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。

明神社

山王院の奥、森の手前に建つ赤い春日造の神社は、高野山の開創以前から土地の神として信仰されてきた丹生(にう)明神、高野明神(狩場明神)を祀る「明神社」です。 「御社(みやしろ)」とも呼ばれ、高野山の神仏習合の象徴です。

明神社

両明神は山麓の山麓の天野の里で祀られていましたが、弘仁10年(819年)、空海が高野山の鎮守としてこの場所に勧請しました。 一宮の丹生(にう)明神、二宮の狩場明神(高野明神)の他に、三宮には十二王子・百二十伴神が祀られています。 社殿は山王院と同じく文禄3年(1594年)の再建で、重要文化財に指定されています。

西塔

明神社の北に建つ二層の多宝塔が「西塔(さいとう)」です。 大日如来の密教世界を具現するため、空海が設計し、仁和2年(886年)に空海の弟子で甥でもある真然が建立しました。

西塔

現在の建物は江戸時代末期の天保5年(1834年)の再建で、内部には金剛界の大日如来と胎蔵界の四仏が安置されています。

鐘楼

西塔の南東には、風情のある鐘楼が建っています。 「高野四郎」と呼ばれる大きな鐘の鐘楼はこれとは別で、根本大塔の南にあります。

孔雀堂

西塔の東、金堂の北西には3つのお堂があります。その中で最も西側にあるのが孔雀堂です。

孔雀堂

もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立されました。 この22年後に承久の乱を起こして鎌倉幕府に敗北、隠岐に配流された後鳥羽上皇ですが、この頃は朝廷の権力を掌握しており、積極的な院政改革を行なっていました。 正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶の作で、重要文化財に指定されています(霊宝館所蔵)。 孔雀堂の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたものです。

准胝堂

孔雀堂のすぐ東側に建つ准胝堂(じゅんていどう)は、空海ゆかりの准胝観音を祀るお堂です。

准胝堂

准胝観音は、空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造ったと伝えられ、もともとは食堂に安置されていました。 平安時代中期の天禄4年(973年)頃、准胝観音を本尊とするお堂がこの場所に建てられ、准胝堂となりました。 現在の准胝堂は明治16年(1883年)の再建です。

御影堂

金堂の奥に建つ御影堂(みえどう)は、空海の肖像(御影)が安置されているため、壇場伽藍で最も重要な聖域とされています。

御影堂

もともとは、空海が日常的に帰依礼拝した念持仏を安置する持仏堂として建立されました。 その後、平城天皇の第三皇子で、政争に巻き込まれて廃太子となった後、空海の十大弟子の一人となった高岳親王(真如)が描いた「弘法大師御影像」を納め、御影堂となりました。 堂内の外陣には、真如を含めた空海十大弟子の肖像も掲げられていますが、旧暦3月21日に執り行われる「旧正御影供」の前夜を除き、一般の参拝は許されていません。

逆差しの藤

御影堂の裏にまわると、逆差しの藤(さかさしのふじ)と呼ばれる藤があります。高野山再興の功労者として知られる平安時代の高僧・定誉(祈親上人)にゆかりの藤です。

逆差しの藤

法華経の持経者であった定誉は長和5年(1016年)、観音像のお告げを受けて高野山に登りました。その頃の高野山は東寺との対立や火災によって荒廃していました。 定誉は高野山の再興を誓い、独自に寒さを防ぐ方法を編み出すなどして山内に常住しました。 また、願掛けとして、藤を逆さに植えました。不思議なことに、藤はそれでも芽を出しました。 そして、定誉の入山から7年後の治安3年(1023)、関白・藤原道長が高野山に参詣。これがきっかけで高野山は藤原氏の保護を受けるようになり、権力者の高野詣でが盛んになります。そして、藤の成長とともに伽藍の復興も進み、高野山は最盛期を迎えました。 逆さに植えても生えてきた藤の木は、天皇家にからみついて勢力を拡大させた藤原氏の生命力の象徴でもあるのかも知れません。

三鈷の松

御影堂と金堂の間、赤い玉垣で丸く囲まれた松の木は、高野山開創にゆかりの「三鈷の松(さんこのまつ)」です。

三鈷の松

三鈷の松には、以下の様な伝承が伝わっています。 空海は唐から帰国する際に、真言密教の布教に相応しい土地を探してほしいという願いをこめて、法具の三鈷杵(さんこしょう)を日本に向けて投げました。 後に空海が高野山の付近に来たところ、ある猟師(実体は狩場明神)から夜になると光る松のことを教えられます。紀州犬に案内されて丹生明神に会い、高野山を譲り受けた空海はこの場所で松に掛かっている三鈷杵を見つけます。 これこそが唐で投げたあの三鈷杵であり、空海はここに真言密教の道場を開くことを決断。高野山の開創となりました。 三鈷杵が掛かっていた松の葉は三鈷杵に似た三葉であり、「三鈷の松」として祀られました。

根本大塔

大塔(根本大塔)は、空海が密教道場のシンボルとして建設を始めた、日本で最初の多宝塔です。

根本大塔

完成は弟子の真然の代、887年頃と伝えられています。 現在の塔は昭和12年(1937年)の再建で、高さは48.5メートルです。 堂内は、立体の曼荼羅として構成されています。 胎蔵界の大日如来を本尊とし、金剛界の四仏が囲んでいます。さらに16本の柱には、それぞれ大菩薩が描かれ、壁の隅にはインドから密教を伝えた真言八祖(第八祖は空海)が描かれています。 北側に鎮座する多聞天と持国天の二尊は江戸時代の作です。もともとは中門に安置されていましたが、火災の際に運びだされました。

高野四郎

大塔の南、金堂の南東には白い鐘楼が建っています。この鐘楼の鐘は「高野四郎」と呼ばれています。

高野四郎

初代の鐘は空海は発願し、真然が完成させました。 現在の鐘は戦国時代の天文16年(1547年)に鋳造されたものです。直径が212センチあり、当時は全国で4番目の大きさだったため、「高野四郎」の名がつけられました。 ここでは毎日5回(午前4時、午後1時、午後5時または6時、午後9時、午後11時)、時鐘が突かれています。 根本大塔の東側、少し低くなった所に3つのお堂が並んでいます。後醍醐天皇が建てた愛染堂、そして西行にゆかりの大会堂と三昧堂です。大会堂と三昧堂の間には、「西行桜」と呼ばれる桜の木もあります。

愛染堂

一番手前(西側)が愛染堂(あいぜんどう)で、本尊は恋愛を司る仏、愛染明王です。

愛染堂

この愛染明王は、鎌倉幕府を倒して建武の新政を始めた後醍醐天皇(1288-1339年)の等身大と言われています。 後醍醐天皇は新政を始めたばかりの建武元年(1334年)に、天下泰平と朝廷の繁栄を願ってここに愛染堂を建立させました。しかしその願いはかなわず、わずか2年後、南北朝時代という朝廷にとって最悪の乱世が始まってしまいます。 現在の建物は、江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に再建されたものです。 愛染明王は、 金剛三昧院 の本尊でもあります。どんな仏なのか、なぜ恋愛を司るのかはそちらに書いたので、ご参照ください。とても高野山らしい仏です。

大会堂

愛染堂の隣にあるやや大きなお堂は、阿弥陀如来を本尊とする大会堂(だいえどう)です。

大会堂

大会堂の前身は1175年(安元元年)、鳥羽法王の第7皇女である頌子内親王(五辻斎院)が願主となり、鳥羽法王の菩提を弔うために創建した「蓮華乗院」です。 蓮華乗院の造営にあたっては、歌人の西行が奉行となり、勧進を勤めました。西行は出家前、頌子内親王の祖父・徳大寺実能の家人であり、鳥羽法皇の北面の武士でもありました。 もとは東別所(刈萱堂の辺り)に建てられましたが、1177年(治承元年)にこの場所に移築されました。その後、高野山から分派して対立していた根来寺(新義真言宗・大伝法院方)と和解するための談義の場としても使われました。 現在の建物は江戸時代末期・嘉永元年(1848年)の再建で、法会の際の集会所となっています。

三昧堂

大会堂の東には、三昧堂(さんまいどう)という小さなお堂が建っています。

三昧堂

もとは平安時代中期の延長7年(929年)、高野山の座主・済高(さいこう)が、「理趣三昧」という儀式のために建てたお堂です。 当初は総持院にありましたが、平安時代末期にこの場所に移築されました。この移築にも、隣の蓮華乗院(大会堂)の奉行だった西行が関わったと伝えられています。 現在の建物は、江戸時代後期、文化13年(1816年)の再建です。

西行桜

大会堂と三昧堂の間にある桜は「西行桜」と呼ばれています。

西行桜

鳥羽法皇の北面の武士だった西行は出家後、高野山に深く関わるようになりました。 ここには、西行が三昧堂の移築・修造をした際の記念に桜を植えたと伝わっています。その桜は三昧堂が再建された文化年間(江戸時代後期)に枯れてしまいましたが、後継の桜として植えられています。

東塔

東塔(とうとう)は、平安時代後期の大治2年(1127年)、白河法皇の発願で創建されました。

東塔

智泉廟

東塔の北東にある小さな廟は、空海の十大弟子の一人で甥でもある智泉(智泉大徳、789-825年)を祀っています。 智泉は14歳で空海の従者となり、16歳の時に空海とともに唐に留学するなど、優秀な弟子として活躍しました。最澄から空海へのとりなしを依頼されたこともあります。 しかし天長2年(825年)、空海に先立ち、37歳で亡くなりました。

蛇腹路

東塔から金剛峯寺のほうへ、東にのびるまっすぐな小道は「蛇腹路(じゃばらみち)」と呼ばれています。

蛇腹路

空海は東西に細長い高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容しました。「龍」の頭は壇場伽藍、尾は現在の金剛峯寺の東の蓮花院の辺りとされています。 この小道は腹の部分にあたることから、「龍の腹の小道」が転じて「蛇腹路」と名づけられました。

不動堂

不動堂は、高野山を代表する歴史建築の一つです。

不動堂

鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、鳥羽上皇と美福門院の皇女である八条院(暲子内親王)の発願で建立されました。 当初は、高野山北部の一心院谷(徳川家霊台と女人堂の間)に阿弥陀堂として建てられましたが、その後この場所に移築され、不動明王が本尊となったことで「不動堂」となりました。 現在の建物は鎌倉時代後期の再建で、金剛三昧院の多宝塔と並び、高野山で最も古い建築物。国宝であり、世界遺産にも登録されています。 不動明王とともに安置された八大童子(はちだいどうじ)の像は、八条院と同時代の仏師・運慶(?-1224)の作として知られています(現在は霊宝館収蔵。なお、8体のうち2体は南北朝時代の補作)。

蓮池

不動堂の南にある池は、かつて蓮の花が咲いていたことから「蓮池」と呼ばれています

蓮池

池の中には島があり、赤い橋で渡ることができます。島には祠があり、江戸時代の明和8年(1771年)に干ばつを終わらせたという善女竜王(ぜんにょりゅうおう)と仏舎利が祀られています。