高野山奥の院の世界遺産-戦国の歴史を体感できる史跡群-

高野山・奥の院(奥之院)は、日本の歴史と思想史、特に戦国時代の武将たちの歴史を体感させてくれる「知のテーマパーク」。戦国武将たちが建てた木造・石造建築物も残っており、「世界遺産」の構成資産に指定されています。 奥の院の世界遺産をめぐりながら、そこに眠っている武将たちの素顔を探ってみましょう。

高野山奥の院の世界遺産

世界遺産・高野山には、各地区に世界遺産の構成資産に指定されている文化財があります。 奥の院のエリアで世界遺産構成資産になっているのは、以下の重要文化財です(入り口の「一の橋」に近いものから順に列記します)。 ・ 「佐竹義重霊屋」 1棟(附:宝篋印塔5基) ・ 「上杉謙信霊屋」 1棟 ・ 「松平秀康及び同母霊屋」 2棟(附:宝篋印塔7基、五輪塔1基) ・ 「金剛峯寺奥院経蔵」 1棟

佐竹義重霊屋

奥の院で最初の世界遺産、「佐竹義重霊屋(さたけよししげたまや)」は、16世紀末、安土桃山時代に建てられた木造建築で、奥の院に残る最も古い建物のひとつです。 佐竹義重霊屋は、一の橋から参道を400メートルほど歩いた場所にあります。参道の合流地点から少し左に(北に)入った辺りを見てみましょう。立ち並ぶ供養塔の向こう側、森の手前に佇む建物です。

奥の院(一の橋~平敦盛)

そもそも「霊屋」とは、どのような建物なのでしょうか? 本来の霊屋とは、古代の日本で行われていた「死者を埋葬するまでの間、穢れの拡散を防ぐために近親者が死者と一緒に隔離生活を送る」という習慣から生まれた言葉です。現在の通夜も、その習慣が変化したものではないかとも言われます。 一方、仏教における「霊屋」とは、位牌を屋内に入れて供養する廟所を意味します。つまり墓所の屋内バージョンです。 釈迦は霊魂については無視したとされ、仏教で否定しているはずの「霊」のための家があるのはおかしい気もしますが、宗教の解釈というものは、言葉の定義次第でどうにでも変わります。 「言葉に縛られることからの解放」を唱えた空海であれば、高野山に「霊屋」があっても気にしないのではないかと思われます。 「佐竹義重霊屋」が建造されたのは1599年。戦国時代が終わったばかりの、「安土桃山時代(信長と秀吉の時代)」です。この霊屋の建築様式も、安土桃山時代に流行していたもの。「戦乱の世」が終わりつつある時代の、武将たちの心情をよく現しています。世界遺産に登録された背景には、そういったこともあるかも知れません。 佐竹義重は「鬼義重」や「坂東太郎」という異名を持つ、常陸の国(茨城県)の戦国大名です。金山開発などで最新の技術を取り入れ、関東随一の鉄砲隊を揃えるなどして、小田原北条氏の関東制覇に立ちはだかりました。 さらに奥州にも大きな影響力を及ぼし、このもう少し先に供養塔がある伊達政宗とも対立。人取橋の戦いでは、政宗をあと一歩というところまで追い詰めました。 その後劣勢になりますが、豊臣秀吉の小田原征伐をきっかけに息を吹き返し、54万石の大大名となります。 1600年の関ヶ原の戦いでは東軍を支持しようとしましたが、息子の義宣が西軍を支持しようとしたため、東軍の勝利後、あいまいな態度を理由に秋田に減封されました。 この霊屋が建造されたのは関ヶ原の戦いの前年。つまり義重の生前であり、最も勢力を持っていた時期です。 どうして、まだまだ血気盛んなはずの武将が、自分を供養するための準備を始めたのでしょうか? 生前から自分のための供養塔を立てたり、霊屋を建てるのは「逆修(ぎゃくしゅ、ぎゃくしゅう)」または「生前供養」と言って、中世から近世にかけて、特に上流階級の間ではよく行われていたことでした。エジプトの王たちが生前からピラミッドをつくらせたように、ステータスとしての意味もあったのでしょうか。 もっとも、実際にこの高野山奥の院で逆修(生前供養)をした人の名前を見ると、どちらかというと、色々と悩みを抱えて生きていた人が多いような気がします。その中には女性も少なくありません。 佐竹家の最盛期、そして凋落がはじまる前年に、高野山に自分の霊屋を作った佐竹義重。この世界遺産には、「鬼義重」のどんな思いがこめられているのでしょうか。

上杉謙信霊屋

「佐竹義重霊屋」の少し先に武田信玄・勝頼の墓所がありますが、さらに参道を進み、大師の腰掛石を過ぎて少し行くと、左側に「軍神」上杉謙信の霊屋があります。 少し奥まった場所ですが、石段の横に案内の柱が立っています。 この「上杉謙信霊屋」も奥の院を代表する重要文化財、かつ世界遺産構成資産のひとつです。

奥の院(上杉謙信~本多忠勝)

上杉謙信は1578年に亡くなりましたが、その翌年には高野山に謙信廟があったことが分かっています。 現在の「上杉謙信霊屋」は建築様式から江戸時代初期、つまり17世紀前半に建てられたと考えられ、後継者の上杉景勝の時代だった可能性も高いです。その景勝の廟も江戸時代はこの隣にありましたが、その後「上杉謙信霊屋」に吸収されました。 内部の須弥壇の上に2基の石碑が納められており、右に「為権大僧都法印謙信」、左に「為権大僧都法印宗心」と記されています。つまり右側が上杉謙信、左側が上杉景勝の位牌です。この霊屋は、正確には「上杉謙信・景勝の霊屋」ということになります。 山形県米沢市には「米澤藩主上杉家廟所」があり、米沢の主要な観光スポットのひとつになっていますが、上杉謙信の遺骨は、高野山と米沢の双方に納められたようです。つまり、実際に遺骨や遺灰が入っていないことの方が多い高野山の他の供養塔とは違い、ここには「実物」が入っている可能性が高いということになります。(遺骨や遺灰は抜け殻にすぎないので、墓や供養塔に遺骨・遺灰が入っていようがいまいが、救済とは関係ないようですが・・・) この世界遺産の建物自体は、上杉謙信の時代に建てられたものではなさそうですが、高野山とは縁が深い(24歳のとき、自ら高野山にやってきて真言宗に入信した)上杉謙信のこと。死後すぐに「謙信廟」があったという記録から考えても、生前からこの場所に霊屋を建てさせて「逆修」したか、そうでなくても、ここに霊屋を建てるよう遺言していた可能性は高そうです。 「49年の人生で、どんな栄光に輝いても、酒を一杯飲むのと同じだった」という意味の漢詩と、「極楽も地獄も先は有明の 月の心に懸かる雲なし(これから行く場所が、極楽でも地獄でもいい。今朝の薄れゆくあの月に雲がかかっていないように、晴れ晴れとした気持ちだ」という辞世の句を残し、武人らしく潔い心持ちで旅立ったと伝えられる上杉謙信。 しかし、この高野山に残された世界遺産「上杉謙信霊屋」には、その「軍神」が部下たちの前では決して見せなかった、別の素顔が秘められているのかも知れません。

松平秀康及び同母霊屋

「上杉謙信霊屋」からしばらく参道を進み、「中の橋」を渡って「覚鑁坂」を登ってからしばらくすると、法然上人墓所のあたりで参道が二つに分岐します。 この分岐の近く、参道の左に見えてくる2棟の石造りの建物が、「松平秀康及び同母霊屋」。17世紀初頭に建てられたもので、これも重要文化財・世界遺産の登録資産です。

奥の院(前田利家・まつ~御供所)

「松平秀康」は、歴史上では「結城秀康」と呼ばれることの方が多い人物です。 徳川家康の次男であり、徳川秀忠の兄にあたります。つまり、長兄の信康が父と対立して切腹に追い込まれた以上、家康の後継者として2代将軍になってもおかしくない立場でした。 しかし小牧・長久手の戦いの後、羽柴秀吉と家康が和睦する際に、秀吉のもとへ人質に出されます。そして、いったん豊臣家の養子になった後、関東の名家・結城家を継いで結城秀康と名乗りました。 家康は、母の身分が高い弟の秀忠を後継者にしようと考えていたため、秀康が徳川家を出ていったことで、後継者争いを防げたという大きなメリットがありました。そういう家康の本音は結城秀康も知っていたはずで、割り切っていたようではありますが、本音は複雑だったと思われます。 結城秀康は人格者であり、武将として優れていたようで、関ヶ原の戦いの際、関東に留まって上杉景勝を抑える役割を任されます。ここが崩れたら東軍は挟み撃ちになりますから、大役でした(実際には、上杉家は北の最上家を攻めるのが精一杯でしたが)。 晩年には松平性を与えられ、越前松平家の祖となりました。「松平秀康」とも呼ばれるのはこのためです。 この霊屋に一緒に入っている結城秀康の母、お万の方(長勝院、おこちゃ)は、家康の正室・築山殿の女中から側室になった人です。家康の子を一度に2人産みましたが(そのうちの一人が秀康)、家康は女中に手をつけたことを後悔したのか、正室の怒りを怖れたのか、それとも、それが双子であったことが気に入らなかったのか、2年以上も双子の兄弟の顔を見ようとしませんでした。 結城秀康も、双子の兄弟の永見貞愛も、若くして病死しました。お万の方も、高い身分にのぼりながらも、幸せとはいえない人生を歩んだ女性の一人だったのです。 一方で彼女の名前は、女性器を示す言葉のもとになったという俗説もあります。 この「松平秀康及び同母霊屋」のうち、先に建てられたのは母・お万の方の霊屋です。1604年、秀康自身が母のために建てました。しかし1607年、本人が母に先立って亡くなったため、秀康の息子、松平忠直によって、隣に結城秀康の霊屋も建てられました。 母のもともとの身分が低かったため、将軍になれなかった結城秀康。しかしその母に対して、彼がどんな思いを抱いていたかを伝えてくれる世界遺産です。

金剛峯寺奥院経蔵(一切経蔵)

奥の院の世界遺産めぐりのしめくくりは、弘法大師御廟の右側(東側)にある「金剛峯寺奥院経蔵」です。「一切経蔵」とも呼ばれます。 関ヶ原の戦いの前年、1599年に建てられたと記されている木造建築です。奥の院で最初に見た世界遺産、「佐竹義重霊屋」と同じ年ということになりますね。

奥の院(織田信長~弘法大師御廟)

建てさせたのは石田三成で、母を供養するために、6557巻の一切経を納めたといいます。建築には木食応其も関わっていました。 石田三成の母・瑞岳院が亡くなった際、三成は検地のために全国を飛び回っていて、母の死に立ち会えなかったといいます。そういったことも、この経蔵の建設と関係しているのかも知れません。 石田三成は、この建物が完成した翌年に起きた関ヶ原の戦いで敗北。その直後、母の実家の近くに逃れたようですが、結局は命を落とすことになります。 なお、結城秀康(松平秀康)は徳川家康の息子。石田三成と結城秀康は直接は戦わなかったものの、敵同士になりました。 この世界遺産は、敗軍の将となった石田三成も、結城秀康と同様、母に対する思いがとても強かったことを伝えています。