- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

高野山の原点はここ!世界遺産「丹生都比売神社」

- Zue Maps 高野山 -

紀伊国一宮・丹生都比売神社は、高野山の「原点」とも言えるパワースポット。空海が高野山を開創した経緯に深く関わっており、世界遺産にも登録されています。 この丹生都比売神社への行き方や歴史背景をご紹介します。

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丹生都比売神社があるのはどんな場所?

丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ、にふつひめじんじゃ)があるのは、高野山北西の「天野の里」と呼ばれる小さな盆地です。 「天野の里」は、古代には「高野の山」つまり高野山とセットで「高天原」と呼ばれており、神々が住む世界だと信じられていました。

丹生都比売神社周辺
高野山周辺

すぐ近くを高野山町石道が通っていて、ハイキングのついでに立ち寄ることができるスポットです。町石道から歩く場合は、「六本杉」の分岐を右に入っていきます。 車で行く場合は、かつらぎ西ICから、高野山へのメインルート「国道480号」を通り、星山から東に入っていくか、紀北かつらぎICから、丹生酒殿神社を経由して、「三谷坂」に沿って南下する方法があります。

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丹生都比売神社にはどんな神様が祀られている?

丹生都比売神社が祀っている祭神は、4柱ありますが、その中で最も重要なのが、神社の名前にもなっている「丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)」です。

丹生都比売神社
丹生都比売神社周辺

「丹生都比売大神」は「丹生明神(にゅうみょうじん)」とも呼ばれます。近くに「丹生官省符神社」や「丹生酒殿神社」という似た名前の神社がありますが、この「丹生」という言葉には、高野山周辺の歴史にとって非常に重要な意味があります。 「丹(たん)」とは、硫化水銀の粉末である辰砂のことです。血のように鮮やかな赤色になるため、魔除けの力があると信じられていました。神社などが赤色(朱色)に着色されることが多いのは、もともとはこの「丹」が着色料として使われていたからです。 実は高野山の周辺地域では、空海がやってくるより何世紀も前から、この「丹」つまり水銀の鉱脈があり、渡来系の「丹生氏(にゅうし)」が採掘をしていました。「丹」を「生む」人々、ということですね。 丹生明神は、もともとはこの丹生氏の氏神であり、「魔除けの神」だったのです。その後地域の人々からは、水源を守る女神、または機織りの神様としても信仰されるようになりました。 この「丹生都比売大神」以外の祭神は、「狩場明神」とも呼ばれる「高野御子大神(たかのみこのおおかみ)」、中世に越中からやってきた「気比明神」、同じく中世に安芸からやってきた「厳島明神」です。 「高野御子大神」は、「丹生都比売大神」の御子神。名前から推察できるように、高野山の開創と深く関わっています。

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丹生都比売神社の歴史と「技術者」空海

丹生明神(丹生都比売神)は、「神功皇后の三韓征伐」の際に神託を出したと伝えられていることから、初期の大和朝廷(ヤマト王権)が成立した初期(3世紀~4世紀ごろ)から権力者たちからも信仰されていたと見られます。 「丹」は古墳の壁画や石棺で使われたことから、その原料を産出する「天野の里」は経済的にも非常に重要な場所でした。 そして、水銀の精錬技術は中国で進歩していたことから(中国では丹をもとに不老不死の薬を作ろうという「錬丹術(煉丹術)」が盛んでした)、常に大陸伝来の技術が求められていました。 その最新の知見を伝えてくれたのが、唐で密教だけでなく現世に役立つさまざまな技術を学んできた「気鋭の科学者」空海だったのです。 唐に渡る前の空海の足跡は謎に満ちていますが、若い頃から、何らかの形で「天野の里」と深く関わっていたという説もあります。

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神様が犬に化身して空海を案内した?高野山の開創伝説とは

空海による高野山開創を伝える伝説に、「丹生明神の土地譲り」という話があります。 この伝承によると、空海は大和の国(奈良県)で黒い犬と白い犬を連れた狩人に会い、高野山に導かれました。この二頭の犬は、実は「丹生明神(丹生都比売神)」と「狩場明神(高野御子大神)の化身であり、この神々の親子は、空海に高野山の土地を譲るために案内したというのです。 この伝説の発展型が、九度山の慈尊院に銅像がある空海を先導した犬の再来?「案内犬ゴン」の物語です。

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「土地譲り神話」の背景に「不老不死の技術」があった?

歴史上では、空海は嵯峨天皇の指示によって高野山の土地を譲られたことになっています。古代から天野の里に権益を持っていた朝廷の関与があったことは確かでしょう。 一方で最近の研究では、空海は高野山の開創にあたり、この一帯の有力者である「丹生総神主家当主」、つまり丹生氏(にゅうし・紀伊丹生氏)の当主に協力要請の手紙を出していることが分かっています。 その手紙には、空海と丹生氏が同じ「大名草彦(おおなぐさひこ)」の子孫である、つまり縁戚にあたることも記されています。しかし、丹生氏にとっての聖地に新たな宗教の拠点を築くわけですから、遠い縁戚にあたるというだけでは、協力を得るのは難しかったのではないでしょうか。 つまり、高野山の開創は、丹生氏にとっても大きなメリットがあったはず。それが何であったかははっきりしていませんが、空海が唐で学んできた「丹」つまり水銀関連のプロジェクトであった可能性が高いと言われています。 もっと深読みをすれば、「錬丹術」の究極の目標である「不老不死」は、「即身成仏」とも意味合いが重なります。もちろん、道教の「不老長生術」と仏教の「即身成仏」は思想的には全く違います。しかし当時は、仏教と道教、儒教、神祇信仰(神道)、さらには科学までもが混ざり合って共存しており、空海はその融合をさらに推し進めていました。 丹生氏など高野山の人々にとっては、空海の説く「即身成仏」の思想は、空海が伝授してくれる「不老不死」の科学、つまり錬丹術とセットだったのではないでしょうか? ともあれ、空海が「神の国」であった「高天原」を、宗教的な摩擦を起こすことなく「仏の国」に変えることができた背景に、何らかの形で「丹」が深く関わっていたことは間違いなさそうです。

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モンゴル帝国の大軍を「撃退」した丹生明神

その後の丹生都比売神社は、高野山が掲げる「神仏習合」によってますます高野山と一体化していきます。 空海の入定から1世紀少しが経った頃には、丹生都比売神社の神領は高野山の寺領にほぼ吸収されており、ついには丹生都比売神社そのものが高野山に所属することになりました。 しかし、それで丹生都比売神社が神社としての役目を終えた訳ではなく、その後さらに、権力者たちから熱い視線を注がれるようになります。 特に鎌倉時代の元寇の際には、この丹生都比売神社で魔除けの祈祷をした結果、「神風」が発生してモンゴル軍を打ち破ったと信じられました。 この「功績」により、丹生都比売神社は「仏教王国」の一部になっていたにも関わらず、「紀伊国一宮」に指定されるという大出世を遂げたのです。 丹生明神がもともと渡来系の人々の神であったこと、空海やその他の「技術者」を通じて積極的に大陸とつながったこと、一方で「三韓征伐」の伝説や元寇の際の「神託」に見られるように大陸の勢力との戦いで「神威」を発揮したことなど、さまざまな意味で大陸との関係が深い神社です。 高野山の一帯は、古代から平安時代に至るまで、大陸の文化と技術、そして宗教を日本に導入する一大拠点だったのかも知れません。

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「天野の里」のその他の史跡

「天野の里」には、丹生都比売神社の他にも見どころがあります。

天野の里
丹生都比売神社周辺

鳥羽天皇の皇后、藤原璋子(待賢門院)に仕えた「中納言の局」が隠棲した場所だという「院の墓」。中納言の局は、武士出身の歌人として名高い西行とも深い関係があったと言われ、墓の近くには「西行堂」もあります。 そして、平家物語に関わる伝承を伝える「有王丸の墓」。有王丸は、「鹿ケ谷の陰謀」の首謀者の一人で、陰謀の発覚後に「鬼界ヶ島」に流された俊寛の弟子だった人物です。俊寛の後を追って鬼界ヶ島に渡り、その地で亡くなった俊寛の遺骨を高野山に納めたあと、この天野に隠棲したと伝えられています。 時間があれば、少し山を登って、高野山町石道の「二ツ鳥居」などの見どころにも行くのもおすすめです。