高野参詣道-世界遺産に登録された巡礼路-

弘法大師信仰といえば、「歩き遍路」。金剛杖を携えて、空海ゆかりの地をめぐる「四国八十八カ所霊場」の巡礼が人気です。 その四国八十八箇所を回って「結願」した後は、高野山奥の院で弘法大師にお礼の気持ちを伝えるのが習わしです(御礼参り)。つまり広義の「遍路」とは、四国だけを巡ることではなく、高野山の巡礼までがセットになっているのです。(最初に京都の東寺で出発の挨拶をするお遍路さんもいます)。 せっかく四国を歩いたのであれば、巡礼の終着点である高野山も歩いて登るほうが気分が高まるというもの。しかも、高野山に徒歩で向かう「高野参詣道」は往時の雰囲気をよく残していることから、世界遺産にも登録されている道です。それぞれ、一日で歩けるウォーキングコースとして整備されています。 代表的なのは「高野山町石道」ですが、それ以外にも様々なルートがあります。どれも、いにしえの街道の名残りです。そのルートは、主に7つ。空海以前から山岳修行の聖地であり、貴族から武士、庶民まで様々な人が歩いた「高野七口街道」です。 今は、電車や車を使えば日帰りもできてしまうほど近い高野山。しかし本来は、都からの遠さこそが、山上都市・高野山を聖地たらしめてきました。 「歩き遍路」を達成した人はもちろん、そうでない人も、昔の人の距離感を感じとるために、一度は麓から歩いてみるのがおすすめです。

高野参詣道

高野山町石道(大門口)

空海の時代から高野山の表参道だったルートで、世界遺産に登録されています。 1町(109メートル)ごとに「町石(ちょういし)」と呼ばれる道標の石柱が立っていることから、「町石道(ちょういしみち)」と呼ばれています。 鎌倉時代に建立された町石の8割(150本)がそのまま残っていて、いにしえの雰囲気が漂っています。 近くに電車が走っているので、途中で切り上げて駅に向かうこともできるルートです。 詳しくは、町石道のルート案内をご覧ください。

熊野古道小辺路(大滝口または熊野口)

「熊野古道」とは、修験道の聖地、熊野三山への参詣道です。高野山と同じように、熊野三山に至る参詣道もいくつかのルートがありました。 小辺路(こへち)はその中でも最も険しい道で、高野山と熊野本宮大社という、二つの聖地を結びます。 修験道は密教の影響を強く受けていますが、その中でも熊野信仰は天台密教の系統で、高野山の真言密教とは異なります。熊野信仰はまた、密教よりもさらに土着信仰との融合を進めていて、庶民に親しまれていました。 小辺路は熊野古道の中でも昔のままの道がよく保存されていて、歩く人が少ない分雰囲気に浸ることもできます。高野山町石道とともに、世界遺産に登録されています。 しかし、その全長は70kmに及び、標高1000メートル以上の山々をいくつも越えなければなりません。全てを歩くには3日から4日かかり、本格的な準備が必要になりますが、一部区間を日帰りで歩くことも可能です。 ただし、公共交通機関は不便です。

京街道、京・大阪みち、東高野街道、裏街道(不動坂口)

その名の通り、京や大阪と高野山を最短で結んでいたルートです。表参道の町石道に対し京大阪道は裏参道として位置づけられ、帰り道として使われることが多かったようです。 整備されたのは平安末期から鎌倉初期にかけて。江戸時代以降は、表参道の町石道以上に賑わっていました。参詣の帰りに羽目を外す旅人を目当てに、街道沿いには旅館や店屋(飲食店)がひしめきあっていました。 道の終点(高野山の入り口)には、「女人堂」が現存しています。高野山は明治時代まで女人禁制だったので、入り口に女性のための参籠所が設けられていました。

大和街道(黒河口・くろこぐち)

大和の国(奈良県)方面からの参詣に使われたルートです。一部は車道になっていますが、ところどころに祠や石仏が残されています。 豊臣秀吉が雷に驚き、馬で駆け下りたという言い伝えもある道です。

大峰街道(東口)

熊野と同じく修験道の聖地だった大峰山と高野山を結ぶ道です。かつて修験者で賑わっていたため、その頃の旅館跡などが残っています。 大和の国で「狩場明神」の犬に導かれた空海が、初めて高野山に入った時のルートとも言われています。

龍神街道(湯川口)

龍神温泉と高野山を結んでいた道で、南から高野山に入る場合のメインルートでした。かつては宿や茶屋がありましたが、今は静かな森の道です。

熊野街道(相の浦口)

高野槇の産地・相ノ浦地区から高野山の「龍神口」と「大滝口」の間にある「相の浦口」に向かう道ですが、昔から利用者は少なかったようです。現在は、崩落のため通行止めとなっています。 次のページ世界遺産のトレイルを歩く「高野山町石道」