真田庵(九度山)
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このページでは、高野山の麓、九度山にある真田庵についてご案内します。
九度山の真田昌幸と信繁(真田幸村)
高野山真言宗の尼寺・善名称院には真田昌幸の墓があり、「真田庵」と呼ばれています。 真田昌幸(1547~1611)は信州の戦国武将で、もともと武田勝頼の家臣でした。武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変によって信州は空白地となりましたが、昌幸は北条、徳川、上杉という大勢力に狙われながらも、権謀術数と巧みな戦術で独立を保ちました。1585年と1600年の二度にわたって、徳川の大軍を撃退したことで知られています。小田原北条氏が滅亡するきっかけを作ったのも、真田昌幸でした。
関ヶ原の戦いでは西軍につきましたが、東軍についた長男・信幸の助命嘆願で死罪は免れ、次男の信繁とともに高野山に流罪となりました。 真田父子は高野山上ではなく、この九度山に住むことになりましたが、その理由は信繁が妻を連れていたこと(当時の高野山上は女人禁制)とも、いったんは高野山上の蓮華定院に入ったものの、山上の生活が寒すぎて昌幸には辛かったためとも言われています。 父子が暮らしていたのは、この真田庵のある場所、または旧萱野家の付近と考えられています。 蟄居中の真田一族は、平べったく丈夫な紐を作って生計を立てていたようです。このような紐は当時、甲冑の材料として全国で作られていましたが、後に「真田が作った丈夫な紐」ということで「真田紐」と呼ばれるようになりました。サナダムシの名前も、この紐に似ていることに由来しています。他にも、高野山周辺で奈良時代から伝わる高野紙も作っていました。 11年後、昌幸はこの地で亡くなりましたが、信繁は1614年に九度山を脱出、豊臣方として大阪城に入城し、大阪の陣で活躍しました。なお、「幸村」という諱は江戸時代の軍記物で広まった名前で、本人は少なくとも大阪城入城の時点では「信繁」と名乗っています