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高野山町石道

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高野山町石道

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町石道とは

「町石道(ちょういしみち)」とは、1町(およそ109メートル)ごとに「町石」と呼ばれる道標を立てた参道のこと。現在では、「高野山町石道」と同じ意味で使われる言葉です。 「高野山町石道」は、空海が高野山を開創した当初からの表参道です。六本杉までの最初の区間は、平安時代には東側の三谷坂がメインルートでしたが、それでも月に9度、空海が母に会いに行くために歩いた道です。 高野山の中でも、空海が生きた時代の雰囲気を特によく伝えている貴重な遺構です。

1町とは、奈良時代に成立した「条里制(じょうりせい)」の単位です。大股で歩いた場合の120歩の長さです。水田の区画整理などで使われていたので、当時の人々にとっては感覚的に最も分かりやすい単位でした。 なお、条里制では「1町は60歩」とされていますが、この場合の「1歩」は右足と左足をそれぞれ踏み出した距離にあたるので、現在は2倍に換算して表現します。 120歩ごとに道標があれば、道を間違えたらすぐに気付くので、戻って歩きなおすのも大変ではありません。(山道だと歩幅が狭くなるので、200歩ぐらいかも知れませんが…) 空海は当時から、高野山が日本を代表する聖地の一つとなり、修行僧のみならず多くの庶民が参詣に訪れることを想定していたのかも知れません。

卒塔婆は後に石柱となり、1町ごとに建てられていることから「町石(ちょういし)」または「町石卒塔婆(ちょうせきそとば)」と呼ばれました。これが「町石道」の名前の由来です。

五輪塔とは

町石は花崗岩で造られていて、高さは3メートルほどです。四角い柱の上に、球体の石、更に屋根のような石が積み重なっています。これは、典型的な五輪塔の様式です。

五輪塔は、釈迦の遺骨を納めた塚に由来する「仏塔(ストゥーバ、卒塔婆)」の一種です。 積み重なった石にはそれぞれの意味を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれていて、一番上の小さな石(宝珠)には「空」、それを支える石(半月)には「風」、屋根のような形の石(笠)には「火」、球体の石(円)には「水」、一番下の石柱(方形)には「地」と刻まれています。これらは仏教において宇宙を形成する5要素です。つまり、五輪塔は仏陀の象徴であると同時に、宇宙そのものの象徴でもあります。 宇宙が「空(虚空、虚無)」「風(自由と発展)」「火(強さと情熱)」「水(変化への適応)」「地(大地、変化への抵抗)」の五大要素(五輪)で構成されているという考え方は、もともと「五大」という古代インドの思想です。それが密教に取り入れられ、「五輪」と呼ばれるようになりました。なお、中国の「五行思想」とは似て非なる思想です。

密教においては、「水」の円形は胎蔵界における大日如来の印相(ポーズ)、「火」の三角形は金剛界における大日如来の印相も表しています。五輪塔は、金剛界と胎蔵界の両方を併せ持つ立体曼荼羅でもあるのです。

五輪塔の普及

五輪塔は、空海の教えを広めながら寄付を募った(勧進した)「高野聖」によって各地に普及しました。その結果、五輪塔は平安時代以降、宗派を問わず、供養塔や墓塔として建てられるようになりました。 今、全国いたるところで見かける五輪塔ですが、その発祥の地はこの高野山町石道だったと考えられます。

曼荼羅の道、町石道

麓の九度山・慈尊院から壇上伽藍・根本大塔までは180基の町石が立っていますが、これは密教の胎蔵界(真理の実践的な側面・現象の世界)の仏の数と同じです。更に根本大塔から奥の院までの町石は37基ですが、これに弘法大師御廟を加えた38という数字は金剛界(真理の論理的な側面・精神世界)の仏の数と等しくなります。

つまり町石道は、一本一本の町石が立体曼荼羅であると同時に、全体を通してみても壮大な曼荼羅となっています。曼荼羅とは大日如来の説く真理を視覚的に表現したものですが、町石道を歩くということは、それを体験として実感することになるのです。 そんなことに思いを馳せながら、空海が歩いたいにしえの道、町石道を辿ってみるのもいいかも知れません。

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町石道の歴史

木製だった卒塔婆がすべて石柱に建て替えられたのは、鎌倉時代中期のことです。その大整備に大きく関わったのは、当時、幕府の実権者だった安達泰盛でした。

泰盛の祖父、安達景盛は出家して高野山の僧侶となり、金剛三昧院を建立した人で、泰盛自身も高野山の檀越(だんおつ、後援者)でした。この頃は蒙古襲来が予想された時期であり、敵国を退散させるための祈祷の意味もこめられていました。 町石建立は文永2年(1265年)に計画され、20年後の弘安8年(1285年)に完成しました。2回に渡る元寇が撃退されたのは、建立が進められている最中のことです(1274年の文永の役、1281年の弘安の役)。 町石道には現在216基の町石が立っていますが、そのうち150基は鎌倉時代の建立当時のものです。

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町石道の歩き方

高野山町石道のスタート地点は、南海高野線の九度山駅から徒歩30分ほどの所にある慈尊院です。慈尊院は空海が高野山開創の際、その表玄関および寺務所として創建した寺院で、女人禁制の高野山には入れなかった空海の母も滞在しました。

九度山駅から高野山上の入り口・大門まで一気に歩くと、ペースや休憩時間によりますが7~8時間ほどかかります。 町石道の近くには、高野山開創にも深く関わった紀伊国一宮・丹生都比売神社もあります。ここに寄っていく場合はいったん坂道を降りてまた登ることになるので、プラス30分は見ておく必要があります。

高野山町石道は尾根伝いの道が中心ですが、ほぼ並行している谷間には南海高野線が通っています。町石道から上古沢駅や紀伊細川駅へ降りていく道もあるので、全行程を歩かなくても、途中で切り上げたり、途中から歩いたり、2回に分けて歩くことも可能です。 その場合、見学時間や休憩時間を考慮しない目安としては、九度山駅から上古沢駅までが3時間半(丹生都比売神社に寄ると4時間半)、上古沢駅から大門までが4時間(二ツ鳥居を経由すると5時間半)です。

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勝利寺から雨引山

勝利寺の石段を降り、竹林や柿畑に囲まれた高野山町石道を進むと、やがて舗装がなくなり、本格的な山道になってきます。 勝利寺の石段下には駐車場ときれいなトイレがあります。この先、二ツ鳥居の先(または丹生都比売神社や上古沢駅)まで数時間の間、トイレはありません。 最初のうちは分かりにくい分岐が多いため、標識や町石に注意しながら進む必要があります。

勝利寺から六本杉

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雨引山周辺

高野山町石道は、まず紀ノ川流域を見下ろす雨引山に向かっていきます。最初は、柿畑の作業道を兼ねた道になっていて、畑に入っていく分岐も少なくありません。 ただし、ほとんどの分岐には標識がありますし、町石にも注意していれば迷いません。

175町石を過ぎたあたりから、雨引山が見えてきます。標高は477.3メートルで、善女竜王を祀っています。天長元年(824年)の干ばつで、朝廷の依頼を受けた空海が宮中で雨乞い祈願を行い、天竺から呼び寄せたとされる神です。それ以来、日照りの際には、人々が山頂で雨乞いをしたそうです。 新池橋という立派な橋に続く道路を横断し、竹林に囲まれた坂道を雨引山へと登っていきます。

やがて、少し分かりにくい分岐が現れます。右方向の「展望台」の標識が目立ちますが、左の柿畑に入っていく道が町石道です。しかし、ここはいったん右の展望台に行ってみましょう。晴れていれば、紀ノ川、橋本市街、和泉山脈、金剛山、そして高野山の山並み(奥の院近くの楊柳山や壇上伽藍近くの弁天岳など)までが見渡せます。 さっきの分岐に戻り、柿畑の中を更に登っていきます。展望が開けた道が続きます。農道をいくつか横断しながら、雨引山の北側から西側へ回っていきます。 やがて舗装がなくなり、地道が始まります。ここからは柿畑もなくなり、分岐もぐんと少なくなります。尾根伝いの本格的な山道です。

上部が破損した古い町石と新しい町石が並ぶ154町石の近くには、赤い鳥居がいくつか立っています。その奥には、「稲荷宗五郎大明神」の祠があります。江戸時代に義民として崇められた下総佐倉藩の名主、木内惣五郎が稲荷神となったものです。 木内惣五郎(佐倉惣五郎、佐倉宗吾とも)は承応2年(1653年)、佐倉藩主・堀田正信(後に大老となった堀田正俊の兄)の年貢の取り立てが厳しすぎると将軍・徳川家綱に直訴。取り調べの結果3年間の減免が行われたものの、宗五郎は直訴の罪により処刑されたと伝わっています。その後、全国の庶民から義民として慕われ、各地で神として祀られるようになりました。 すぐ先には、雨引山山頂への分岐があります。ここから10分ちょっとで行けますが、木立に遮られて展望はありません。

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弘法大師像から六本杉

時々開ける展望や古い道標を見ながら木立の中の道を進んでいくと、少し広くなったスペースがあります。 道の左側に、小さな石像があります。 石仏にも見えますが、右手に三鈷杵(空海を高野山に導いたという密教法具)のような物を持っているので、おそらく弘法大師像だと思われます。 ここからしばらくは、林道のような広く平坦な尾根道が続きます。 144町石の右に並んで立つやや大きな石柱は、一里塚です。 1里は36町なので、つまり慈尊院から4kmほど歩いたことになります。(ただし、1里が36町と定められたのは江戸時代のことで、律令制の1里は5町でした) 広い道が終わり、再び狭い坂を登って行きます。

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六本杉

石段を登り切ると、「六本杉」と呼ばれる峠に出ます。展望台からここまでは50分ほど。古くから見事な杉林があったので、六本杉という名前がつけられたそうです。 近くには136町石があるので、慈尊院からここまでの距離は44町(約4.8キロメートル)ということになります。 六本杉では3本の分岐があり、左に鋭角に曲がると、町石道の続きです。(写真の中央。そのすぐ左に見える凹みが、これまで歩いてきた町石道です) 直進すると、丹生都比売神社のある天野の里へと下りていきます。(上の写真で、ちょうど背を向けている方向) 六本杉から高野山上の入り口・大門までの町石道は、木立に囲まれた尾根道が中心です。 人里(天野の里、上古沢、紀伊細川など)への分岐がいくつかあるので、途中で切り上げたり、途中から歩いたりすることができます。 六本杉と二ツ鳥居は、共に天野の里へ下る分岐がある場所です。町石道を歩くと30分(1.8キロメートル)、天野の里経由だと1時間ほどかかります。 町石道のほうは、杉林や自然林に囲まれた、ほぼ平坦な尾根道です。

六本杉から二里石

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小都知ノ峯

126町石の少し先で左に分岐する細い道は、小都知ノ峯(おづちのみね)に登る道です。 小都知ノ峯は、丹生明神(にうみょうじん、丹生都比売大神)が大和の国から天野の里にやって来る際に超えたとされる峰ですが、展望は開けていません。

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古峠

六本杉から20分ほどで、124町石が立つ「古峠」に到着します。ここにも左への分岐があり、緑の標識には「←上古沢駅」と書かれています。

ここで町石道を切り上げて、上古沢駅から鉄道とケーブルカーで高野山に登ることもできます。古峠から上古沢駅への道は急な下りとなり、1時間10分ほどかかります。 古峠から天野の里まで下る道もあります。「古峠」という名前と、近くに丹生明神ゆかりの小都知ノ峯があることを考えると、古代の丹生一族はこの道をたどって古沢から天野にたどり着いたのかも知れません。しかし今は、手前の六本杉か、この先の二ツ鳥居からの道(八町坂)の方が整備されています。

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二ツ鳥居

古峠から町石道を続けると、400メートルほどで二ツ鳥居に着きます。天野の里を見下ろす展望台があり、休憩にはもってこいの場所です。 展望台の先に、2基の鳥居が横に並んでいます。

二ツ鳥居

江戸時代末期の慶安2年(1649年)に建立された石造りの鳥居ですが、もともとは弘仁10年(819年)5月3日、空海が高野山に丹生明神と狩場明神(高野明神)を勧請した際に、神域の入り口として建立したと伝わっています。2基の鳥居は、両神それぞれを遥拝するものと考えられます。 二ツ鳥居より先の町石道は聖なる道となり、昔は木の伐採も禁じられていました。「高野山」は、ここから始まるということもできます。 鳥居の先の分岐を左に行くと、高野山上に続く町石道。右に行くと、天野の里へと下る急坂(八町坂)です。この道は紀ノ川沿いの妙寺駅へと続く三谷坂道(勅使坂道)で、町石道よりも古い歴史を持つ道です。町石道よりも行程が短く、天野の丹生都比売神社を通ることから、朝廷の勅使や神主がよく利用していました。 八町坂(天野の里への道)との分岐である二ツ鳥居から、上古沢駅への道と分岐する笠木峠までは、3.8キロメートル(1時間10分ほど)の尾根道です。 二ツ鳥居のそばに立つ120町石は、なぜか分岐の右側、天野の里へ下る八町坂の方にあります。しかし標識にある通り、町石道は左の道です。

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白蛇の岩

左側の木立の向こうに高野山の山並みを見ながら、坂を下っていくと、木製の鳥居があります。その向こう側にあるのが「白蛇の岩」で、昔、高野山の僧侶が丹生都比売神社に向かう途中、蛇を杖でつついて驚かせたところ、帰りに白い大蛇が待ち構えていたという言い伝えがあります。

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神田応其池

113町石の近くには、神田応其池という池があります。安土桃山時代の僧侶で、紀州に攻めこんできた豊臣秀吉と高野山との和議を結んだ木食応其(もくじきおうご、1536-1608年)が、この近くにある神田の里のために築造した溜め池だと伝わっています。 神田の里は、その名の通り神の田(丹生都比売(にうつひめ)神社の御供田)があった里です。 ここからしばらくは右側のゴルフ場(紀伊高原カントリークラブ)に沿った道となるので、ゴルフボールが飛んでくることがあるかも知れません。

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神田地蔵堂(滝口入道と横笛の悲話)

神田応其池の先にある神田地蔵堂には、本尊の子安地蔵尊と共に、空海と木食応其が祀られています。 この場所には、平家物語にまつわる伝説も残っています。平清盛の嫡子・平重盛の家臣だった滝口入道と、重盛の妹・横笛の悲恋物語です。 滝口入道(当時の名は斉藤時頼)は、平清盛が西八条殿で開催した花見の宴で、建礼門院に仕えていた横笛の舞を見て惚れてしまい、恋文を書いて告白。二人は相思相愛の仲となりました。 しかし、身分が違いすぎるため斉藤時頼の父が許さず、時頼は出家して京都・嵯峨の往生院に入り、滝口入道となります。それでも横笛が会いに来たため、滝口入道は高野山に入山。さすがの横笛も女人禁制の高野山には入れず、この地蔵堂のある場所で滝口入道を待ち続けたといいます。 江戸時代には高野山上のすぐ手前に女人堂ができましたが、平安時代は女性はこの辺りまでしか来ることができなかったのでしょう。 神田地蔵堂の下にも、きれいなトイレがあります。

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二里石

108町石の奥には二里石があります。慈尊院から2里(72町)、つまり8キロメートルほど歩いたことになります。 ここから北東方向に下ると、やがて上り道となり、笠木峠に到着します。笠木峠からは、上古沢駅に下る舗装路があります。 二里石から国道と交差する矢立までは雑木林の中の下り道となります。距離は3キロメートル、約50分の道のりです。

二里石から矢立

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三里石

雑木林を抜けると72町石があり、その奥に三里石が立っています。慈尊院から108町。およそ11.8キロメートルです。

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矢立砂捏地蔵

坂を下りきると、車道と交差します。旧高野山道路(国道370号)と西高野街道(国道480号)との合流地点・花坂交差点もすぐそばです。 車道沿いに60町石があり、その手前にある階段を登ると地蔵堂があります。地蔵堂には、空海がこの地の平和と村人の健康を祈願して彫ったという「矢立砂捏地蔵(やたてすなこねじぞう)」が鎮座しています。。欲張らずに心を込めてお祈りすると幸せがやってくる「幸せの地蔵さん」だそうです。

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矢立茶屋

車道を横断すると、ログハウスのような外観の茶屋「矢立茶屋(やたてちゃや)」があります。慈尊院から大門までの町石道では唯一、食べ物や飲み物が買える場所です。 「お茶 まっ茶 やきもち」と書かれていますが、ここの名物は炭火で焼いた焼き餅です。焼き餅が105円、抹茶と餅2個のセットで525円。白餅とよもぎ餅があります。 店内で、自分で火にあぶって食べることもできます。あっさりした甘さの小豆あんが入っていて、炭火で香ばしく焼いています。硬めの餅に、米粉をまぶしています。 店の入り口には、素材のもち米が飾られています。店主一家が棚田に高野山の水を引き込み、自分たちで育てているコメです。ねばりけのある米をキネでつき、添加物や防腐剤なしで仕上げた秘伝の味、だそうです。お茶も、この辺りの自然水が使われています。 この辺り(花坂)は、町石道や西高野街道など高野山参詣道の合流地点であるため、かつては宿場町として栄えた場所です。

矢立茶屋
営業時間 10:00~17:00 (火曜定休) 和歌山県伊都郡高野町花坂 618 TEL 0736(56)5033

近くにはトイレもあります。 矢立(花坂)から高野山上の入り口・大門までは、急な坂を登った後に、国道に沿った尾根伝いの道を歩きます。

矢立から大門

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六地蔵

矢立茶屋の近く、59町石の左に、小さな地蔵が6体並んでいます。インドから伝わった「六道」の世界観では、死後は天道,人(にん)道,修羅道,畜生道,餓鬼道,地獄道という六種類の世界に輪廻転生すると言われます。 「六道」にはそれぞれの苦しみがありますが、地蔵菩薩は「六道能化(ろくどうのうけ)」といって、全ての世界において救済者となるとされています。 六地蔵は、1体ずつが「六道」のそれぞれの救済にあたっています。また、旅人の安全を守るともされています。

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袈裟懸石

55町石の先にある石は空海が袈裟をかけたと伝えられていて、「袈裟懸石」と呼ばれています。 また、馬の鞍を掛けられそうな形をしていることから、「鞍掛石」ともいいます。 この石の下にある小さな穴潜ると長生きするとも言われます。この先は結界が張られた清浄な世界とされます。

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押上石

袈裟懸石の200メートルちょっと先、52町石の近くにある、山にへばりつくような石です。 空海の母が高野山に入山しようとしてここまで来た時、炎の雨が降ってきたため、空海がこの岩を押し上げて母を庇ったという言い伝えから、「押上石」の名がつきました。その時の、空海の両手の跡も残っているとのことです。

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四里石周辺

曲がりくねったきつい坂を登って行くと、40町石の手前で車道(国道480号、旧高野山道路)が現れます。ここから大門までは、この車道と並行した尾根道です。 40町石の先にある坂を登ると、ちょっとした展望台があります。 39町石から37町石までの町石は、歩道の町石道ではなく車道のほうに立っています。もともとは、車道のあるところが町石道だったのでしょう。 車道と歩道が再び接した後、36町石が今度は歩道の方に現れます。そこから少し離れた場所に、四里石があります。慈尊院から144町石、15.7キロメートルになる計算です。 その先、33町石の辺りは右側の展望が開け、大門がある方角の山並み(弁天岳など)が見えます。

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鏡石から大門

鏡のようにすべすべしている鏡石も、空海にゆかりの石です。花坂の里に12本の角の生えた娘が住み、鏡を見ては泣いていました。通りがかった空海が「12人の子どもを生みなさい。一人生むごとに1本ずつ角が消えます」と教え、その通りになったといいます。 かつては人の姿を映すほどつるつるしていたのでしょう。この石の角に座って真言を唱えると、願いが成就するとも言われています。 その先、27町石を過ぎ、小さな橋を渡ると、渓流に沿った道となります。 12町石のあたりからは最後の登りで、急な階段もあります。10町石には、町石道を作った時の執権、北条時宗の名前が刻まれています。 更に登りつめると、8町石の斜め向かいに堂々たる大門がそびえ立っています。