壇上伽藍の参拝ルート-空海が設計した立体曼荼羅を体感-

壇上伽藍(だんじょうがらん)は、空海が高野山を開創する際に最初に伽藍を建てた場所。そのため高野山の中でも、奥の院と並んで最も神聖な場所になっています。 空海は、この壇上伽藍を「3Dの曼荼羅」として設計しました。つまりここを一回りすれば、密教を体現した世界を全身で実感できる、ということになります。 世界遺産にも指定されている貴重な寺院群には、空海のどんな思想が体現されているのでしょうか?壇上伽藍の参拝で、密教の神秘にせまってみましょう。

壇上伽藍の参拝ルート

壇上伽藍への行き方

壇上伽藍は、高野山の中心部よりもやや西よりに位置しています。高野山の表玄関「大門」と、現在の高野山真言宗の中枢である「金剛峯寺」との間です。

壇上伽藍(広域)

路線バスを使って壇上伽藍に行く場合、最寄りのバス停は「金堂前」停留所です。ここから「中門」をくぐって壇上伽藍に入るのが正式な参拝ルートです。 他には、東側の「金剛峯寺前」停留所から「蛇腹路」を歩いて入ったり、南東にある「霊宝館前」停留所から蓮池の東側(勧学院の西側)をショートカットして入る方法などもあります。 車で移動している方は、中門から近い順に「中門前」駐車場「霊宝館」駐車場「愛宕第1」駐車場「愛宕第2」(臨時)駐車場「金剛峯寺第2」駐車場「金剛峯寺前」駐車場などがあります。 どれも無料駐車場で、選択肢が多いように見えますが、注意点もあるので高野山の駐車場のページをご参照ください。結論だけ書くと、状況や目的によりますが

「金剛峯寺第2」駐車場を目指すのがおすすめになることが多いです。

壇上伽藍の入場料・拝観料

壇上伽藍の参拝では、入場料や拝観料はいくらかかるのでしょうか? 実は壇上伽藍自体に入るための入場料は、無料となっています。寺院群のほとんどを、拝観料を支払うことなく見て回ることができるのです。 しかし2ヶ所だけ、建物の内部に入るための拝観料がかかります。金堂と根本大塔です。 金堂の拝観料は、中学生以上の一般料金が500円。根本大塔の拝観料も、同じく中学生以上の一般料金で500円となっています。 障害者手帳を持っている人と介添者(1名)は拝観料が免除されます。また、年末年始の期間(12月28日から1月4日まで)は、金堂も根本大塔も、拝観料が無料になることが多いです。 他にも、共通内拝券による割引があったり、「南海りんかんバス」のフリー乗車券・鉄道とのセット券などで拝観料が2割引になったり、団体割引(20名以上で1割引など)があります。 壇上伽藍の公開されている場所を全て堪能したとしても、一人あたりの拝観料の合計は1000円以下、ということになります。 金堂や根本大塔を含め、高野山内の施設の拝観料については、ネット上には古い情報が多く掲載されていますが、2020年10月に改定されています。 金剛峯寺各所拝観料改定のお知らせ (公式サイト) 今後も改定される可能性はあるので、最新の情報は公式サイトなどでご確認ください。

壇上伽藍に入場できる時間と拝観時間

壇上伽藍は24時間開放されているので、いつでも入域できます。日没後から翌朝までは主な建物がライトアップされるので、夜間も参拝・観光を楽しめます。 それでは、建物の内部を拝観できる時間はいつでしょうか? 内部を拝観できるのは金堂と根本大塔ですが、どちらも、拝観時間は朝の8時半から夕方の5時(17時)までとなっています。ただし、建物に入場できる時間は金堂が4時45分まで、根本大塔が4時15分までとなっているので注意が必要です。根本大塔の方が拝観に時間がかかるので、最終入場の時間も早めになっているのですね。


「壇上伽藍」ってどういう意味?

「壇上伽藍」の読み方は、「だんじょうがらん」です。「壇上伽藍」の意味を一言で言うと、「清浄な場所にある寺院群」となります。 ここからは、「壇上伽藍」という言葉にこめられた意味を、もっと知りたい方のための説明になります。そうでない方は、壇上伽藍の正式な参拝方法中門まで飛ばしていただいてもかまいません。 「壇上伽藍」は「壇上」と「伽藍」を組み合わせた言葉で、二つとも単独ではよく使われますが、組み合わせて使う例は、今では高野山以外にはほとんど見られません(「壇上伽藍」で検索すれば分かります)。この言葉が使われている背景を探ると、弘法大師・空海ならではの思想が浮かび上がってきます。 最初の「壇(だん)」という漢字には様々な意味がありますが、最も一般的に使われるのは「儀式を行うために設けられた、他よりも一段高い場所」という意味です。「文壇」のように、特殊な分野(特に学問・芸術系)の人たちの集まりという意味でも使われます。 一方、仏教用語の「壇」には、「仏像を安置し、お供え物をする台(祭壇、仏壇)」という意味や、「戒律を授けるための結界が整った場所(戒壇)」という意味があります。「壇」の歴史をたどると、インドの初期仏教で牛糞を固めて作った祭壇や、土を盛り上げて牛糞や香泥を塗った祭壇がオリジナルのようです。そうした「壇」を設けている場所のことを「壇場(だんじょう)」と言います。 密教では、「修法壇」という祭壇に供養物や法具を献じて真言を唱え、祈りを成就させるための秘密の修法(しゅほう、すほう、ずほう。一般的には加持祈祷のこと)を行ってきました。 「伽藍(がらん)」は、今では「寺院群」という意味でよく使われますが、由来はサンスクリット語の「サンガーラーマ(またはサンガ・アーラーマ)」という言葉。インドでは、「僧侶たちが修行をする広い場所」という意味で使われていました。 「がらんどう」とか「がらんとしている」いう言葉の使われ方も、伽藍という言葉に含まれている「広い」という意味が影響しています。 こうした由来を考えると、「壇上伽藍」の本来の意味は、「密教の加持祈祷を行う修法壇や戒律を与える戒壇が設けられた、修行のための広場」だった可能性が高そうです。 しかし、この広場全体を「壇上」と呼んでしまうと、神聖であるべき「壇」の上に観光客も含めて登ってしまうことになります。一方、「壇場」という漢字で書くならば、ここは「壇が設けられた修業の場」にすぎないので、そういう問題は起きなそうです。 それならば、「だんじょうがらん」の漢字表記は「壇上伽藍」ではなく「壇場伽藍」と書く方が正しいのでしょうか? しかし、高野山真言宗の総本山、金剛峯寺の公式サイトには「壇上伽藍」と書かれています。拝観などの案内では「大伽藍」という言葉が使われています。現在は「壇上伽藍」または「大伽藍」という表記が公式ということになります。 「高野山真言宗総本山金剛峯寺」の「名所一覧」 (公式サイト) 実は「壇」という言葉には「仏像たちの座所」という意味に加えて「曼荼羅」という意味もあります。後述するように、この一帯そのものが「曼荼羅」として設計されているのであれば、「壇上伽藍」という表記には「曼荼羅の上にある広場」という意味がこめられている、という解釈もできるのです。 さらには、壇上伽藍と奥の院を合わせて「両壇」と呼び、高野山全体を「壇」と見なす考え方もあります。 人々が生活する巨大な「壇(宗教都市・高野山)」の一部に修行の場としての「壇(壇上伽藍)」があり、そこには加持祈祷をするための「壇(祭壇)」があって、しかもその祭壇の内側にも無数の「壇(仏像の座所)」があるという、ロシアのマトリョーシカ人形のような入れ子構造です。 この聖地をマトリョーシカに例えていいかどうかはともかく、「壇場伽藍」は難しい漢字なので、「壇上伽藍」のほうが親しみやすいですね。「壇場」だと難しすぎるので、一般的な説明では「壇上」という漢字を使い、内部では「大伽藍」と呼んでいるとも考えられます。 実は空海も、「言葉に囚われすぎると、大切なものを見失ってしまう。細かい言葉の解釈で議論をするのではなく、五感を駆使して本質を感じ取ろう」みたいなことを説いていました。空海にとっては、「壇場伽藍」か「壇上伽藍」か、という議論などどうでもいいのかも知れません。 言葉とは移り変わるもの。本来の意味や使われ方の変遷をたどると歴史が分かって面白いですが、「こっちの言葉が正しい」とか、「この言葉の使い方は正しくない」ということにこだわりすぎるのも良くないようです。 このページでも、以前は「壇が設けられた修行の広場」という語源に忠実な意味で「壇場伽藍」という表記をしていましたが、「曼荼羅として設計された寺院群」という(空海的な?)意味をこめて「壇上伽藍」に改めました。 なお、行政による公式な表記(国指定史跡および世界遺産としての表記)は「金剛峯寺伽藍地区」となっています。

曼荼羅として設計された伽藍群

言葉と理屈をこねくり回す仏教からの脱却を唱えた「弘法大師」空海。この天才演出家は、仏法を広めるためには「総合芸術」である密教こそが有効だと考えていました。 この密教の芸術性を代表するアート作品が、「曼荼羅」です。仏教美術といえば単体の仏像などが基本ですが、曼荼羅では無数の仏像を組み合わせることで世界観を表現しています。 空海はさらに、この考え方を建築の分野にも応用しました。そのためにつくられたのが、この壇上伽藍です。 伽藍群を曼荼羅として見た場合、核になっているのは、根本大塔と西塔になります。この2つの多宝塔は、真言密教の根本仏・大日如来の2つの側面を象徴しています。 根本大塔が象徴しているのは、母親の胎内のような優しい側面。仏教用語で「胎蔵界」と呼ばれます。どんなものでも受容する大日如来の慈悲のもとに、悟りの本質が育まれるとされます。

根本大塔(壇上伽藍)

一方で西塔は、何のものにも屈せず、強い意志を貫く男性的な側面を象徴します。こちらは「金剛界」と呼ばれます。

西塔(壇上伽藍)

「胎蔵界」と「金剛界」は一見対照的な世界ですが、真言密教では、この「ソフト」と「ハード」が実は一体であるという「金胎不二」の思想をとても大切にしています。 つまり「胎蔵(ソフト)」と「金剛(ハード)」という対照的な側面が、根本大塔と西塔のそれぞれの内部でいったん融合し、さらにこの2つの多宝塔を配置した「壇上伽藍」という場で更に大きく融合して、大日如来の多様性が表現されているのです。 「金胎不二」については、哲学的な男女合体「金胎不二」のページもご参照ください。

壇上伽藍の文化財・世界遺産

伽藍は何度か火災に見舞われましたが、以下の建築が国宝や重要文化財に指定され、世界遺産に登録されています。

不動堂

国宝・世界遺産 1197年または1198年建立 14世紀再建 1908年移築

山王院本殿

重要文化財・世界遺産 1522年再建

西塔

重要文化財 887年建立 1834年再建

壇上伽藍(六角経蔵周辺)

壇上伽藍の正式な参拝方法

壇上伽藍には、「右遶(うにょう)」と呼ばれる正式な参拝方法があります。右肩を金堂の仏像に向け、時計回り(右回り)で巡る方法です。 これは、右手を清浄とする(浄手)インドから伝わった礼拝方法です。チベット仏教でも、マニ車を時計回りに回すと功徳が積め、反時計回りに回してしまうと悪い業が生じてしまう、と言われています。 なお、ギリシャ文明は仏教と同じ時計回りの文化ですが、ローマ文明とそれに続くキリスト教は反時計回り(左回り)の文化だそうです。

中門

壇上伽藍の入り口には、五間二階の楼門・中門(ちゅうもん)が建っています。 江戸時代末期の天保14年(1843年)に焼失し、礎石を残すのみとなっていましたが、高野山開創1200年の2015年に再建されました。 ここは壇上伽藍の結界にあたるため、守護像として、四天王(持国天、毘沙門天、増長天、広目天)が祀られています。江戸時代の焼失時に救出された持国天と毘沙門天に加えて、再建後は増長天と広目天が新たにつくられされ、四天王像がそろいました。

金堂

中門のすぐ奥に建つ大きな建物は、昭和7年(1932年)に再建された金堂です。

金堂

金堂は平安時代から高野山の総本堂であり、高野山開創時は講堂と呼ばれていました。 平安時代末期の保元元年(1156年、「保元の乱」が起きた年)には、平清盛が巨大な両部曼荼羅を金堂に寄進しました。 「平家物語」には、平清盛が自らの頭の血を使って胎蔵曼荼羅の中尊像を描かせたと記されています。そのため、この曼荼羅は「血曼荼羅」として知られています。 この「血曼荼羅」は重要文化財で、実物は高野山霊宝館に収蔵されています。金堂には、その模写が展示されています。 現在の建物は7度目の再建ですが、建築と本尊、壁画などに近代日本の最高水準の技が凝縮されています。 金堂の建築は、武田五一(たけだごいち、1872-1938年)が設計した鉄骨鉄筋コンクリート構造の入母屋造(いりもやづくり)です。武田五一はアールヌーボーなどのデザインを日本に紹介した、近代日本を代表する建築家の一人です。国会議事堂の設計や法隆寺、宇治平等院の修復に関わりました。 入母屋造とは、屋根が二段になっている建築様式のこと。上段が切妻造(きりづまづくり)、下段が寄棟造(よせむねづくり)です。 切妻造の屋根(切妻屋根)は、傾斜が二方向にしかなく、本を伏せたような形をしています。「妻(屋根の棟と直角な面)」を切断したように見えることから切妻造といい、換気に優れています。日本では仏教渡来以前からよく使われてきた様式で、そのため神社の本殿もほとんどは切妻造です。 寄棟造の屋根は、四方向に傾斜しています。寄棟、または四注(しちゅう)ともいい、もともとは東日本に多かったことから「東屋」(あずまや)とも呼ばれました。雨の流れが良く、日本では切妻造に次いで多い様式です。 切妻造と寄棟造を組み合わせた入母屋造は風格がありますが、複雑かつ重量があるため、しっかりした骨組みや雨漏り対策が必要になります。そのため重厚な造りとなり、格式の高い建物に使われる様式です。寺院建築の多くは、寄棟造か入母屋造で造られています

金堂

金堂の本尊は、高村光雲(たかむらこううん、1852-1934年)が彫った薬師如来像で、秘仏です。 高村光雲は、木彫の彫刻に写実主義を取り入れるなど、日本彫刻の近代化に貢献しました。東京・上野公園の西郷隆盛像や皇居外苑の楠木正成像、シカゴ万博に出品した老猿(重要文化財)を作ったことでも知られています。 金堂内部の壁画(「釈迦成道驚覚開示(しゃかじょうどうきょうがくかいじ)の図」「八供養菩薩像(はっくようぼさつぞう)」)は、日本画家の木村武山(きむらぶざん、1876-1942年)による作品です。木村武山は、壮麗な花鳥画・仏画で知られ、「院展」で知られる日本美術院の中心画家の一人です。 菩薩像は、こちらが移動しても視線が追ってくるように描かれています。 金堂内部の拝観については、以下をご覧ください。

登天の松

金堂の西側の広場には、「登天の松(とうてんのまつ)」という松があります。 平安時代末期の久安5年(1149年)、高野山の高僧・如法(にょほう)上人がこの松から弥勒菩薩の浄土へ昇天したとされます。

杓子の芝

松の下に生えている芝は「杓子の芝(しゃくしのしば)」です。 如法上人が天に登る際、「小如法」という弟子が斎食の準備をしていましたが、師の昇天を見て、そのまま後を追いました。 その時に小如法が持っていた杓子が落ちたことから、松の周りに生えている芝は「杓子の芝」と名づけられました。

六角経蔵

金堂の南西に建つ小さな塔は、平安時代末期、美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために建立した「六角経蔵」です。

六角経蔵

美福門院と高野山

美福門院は鳥羽法皇の后として権勢をふるった女性で、保元の乱の原因を作ったと言われています。 一方で美福門院は高野山に深く帰依しており、この経蔵に納める一切経のため、紀州荒川の荘園を高野山に寄進しました。このことから、六角経蔵は「荒川経蔵」とも呼ばれています。 美福門院は鳥羽法皇の遺言に背いてまで、自らを高野山に葬るよう切望しました。女人禁制の高野山は反発しますが、この寄進の効果があったためか、例外として納骨が許されました(不動院境内の美福門院陵)。 美福門院の人生や高野山との関わりについては、その陵墓がある不動院の案内ページで詳しく解説しています。平安時代後期の歴史に興味がある方はどうぞ。

六角経蔵の回転

現在の六角経蔵は昭和9年(1934年)の再建で、少し高くなっている基礎の上に把手がついています。力がいりますが、ここを押すと回転できるようになっています。

時計回りで一回りすると一切経を読んだのと同じ功徳を得られるとされます。チベット仏教のコルラ、またはマニ車と似た意味合いです。 美福門院が納めた一切経(紺紙金泥一切経・重要文化財)は現在、高野山霊宝館が収蔵しています。

閼加井

六角経蔵の裏に柵と門があり、標識には「閼加井門」と書かれています。 閼加井(あかい)とは、仏に供える水を汲む井戸のことです。

山王院

六角経蔵の右奥にある入母屋造りのお堂は、明神社の拝殿として建てられた「山王院(さんのういん)」です。 山王とは高野山の土地の神のことであり、山王院は明神社に祀られている丹生明神、高野明神(狩場明神)を礼拝する場所となっています。

明神社(左)と山王院(右)

山王院では毎年、竪精論議や御最勝講などの行事が催されます。丹生明神、狩場明神への法楽として、月次門徒・問講の法会も行われています。 桁行21.3メートル、梁間7.8メートルの細長い建物は、安土桃山時代の文禄3年(1594年)に再建されたもので、重要文化財に指定されています。

明神社

山王院の奥、森の手前に建つ赤い春日造の神社は、高野山の開創以前から土地の神として信仰されてきた丹生(にう)明神、高野明神(狩場明神)を祀る「明神社」です。 「御社(みやしろ)」とも呼ばれ、高野山の神仏習合の象徴です。

明神社

両明神は山麓の山麓の天野の里で祀られていましたが、弘仁10年(819年)、空海が高野山の鎮守としてこの場所に勧請しました。 一宮の丹生(にう)明神、二宮の狩場明神(高野明神)の他に、三宮には十二王子・百二十伴神が祀られています。 社殿は山王院と同じく文禄3年(1594年)の再建で、重要文化財に指定されています。

西塔

明神社の北に建つ二層の多宝塔が「西塔(さいとう)」です。 大日如来の密教世界を具現するため、空海が設計し、仁和2年(886年)に空海の弟子で甥でもある真然が建立しました。

西塔

現在の建物は江戸時代末期の天保5年(1834年)の再建です。 本尊は金剛界の大日如来(金剛界大日如来像)。つまりハードな側面を見せている大日如来です。その周囲を胎蔵界の四仏、つまりソフトな仏像群が囲むことで、「金胎不二」を表現しています。 また、根本大塔と対になることで、さらに大きな「金胎不二」も体現しています。

鐘楼

西塔の南東には、風情のある鐘楼が建っています。 「高野四郎」と呼ばれる大きな鐘の鐘楼はこれとは別で、根本大塔の南にあります。

孔雀堂

西塔の東、金堂の北西には3つのお堂があります。その中で最も西側にあるのが孔雀堂です。

孔雀堂

もともとは鎌倉時代初期の正治元年(1199年)、京都・東寺の延杲(えんごう)が雨乞いを成就させたことがきっかけとなり、後鳥羽上皇の命により建立されました。 この22年後に承久の乱を起こして鎌倉幕府に敗北、隠岐に配流された後鳥羽上皇ですが、この頃は朝廷の権力を掌握しており、積極的な院政改革を行なっていました。 正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶の作で、重要文化財に指定されています(霊宝館所蔵)。 孔雀堂の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたものです。

准胝堂

孔雀堂のすぐ東側に建つ准胝堂(じゅんていどう)は、空海ゆかりの准胝観音を祀るお堂です。

准胝堂

准胝観音は、空海が得度の儀式を行う際の本尊として自ら造ったと伝えられ、もともとは食堂に安置されていました。 平安時代中期の天禄4年(973年)頃、准胝観音を本尊とするお堂がこの場所に建てられ、准胝堂となりました。 現在の准胝堂は明治16年(1883年)の再建です。

御影堂

金堂の奥に建つ御影堂(みえどう)は、空海の肖像(御影)が安置されているため、壇上伽藍で最も重要な聖域とされています。

御影堂

もともとは、空海が日常的に帰依礼拝した念持仏を安置する持仏堂として建立されました。 その後、平城天皇の第三皇子で、政争に巻き込まれて廃太子となった後、空海の十大弟子の一人となった高岳親王(真如)が描いた「弘法大師御影像」を納め、御影堂となりました。 堂内の外陣には、真如を含めた空海十大弟子の肖像も掲げられていますが、旧暦3月21日に執り行われる「旧正御影供」の前夜を除き、一般の参拝は許されていません。

逆差しの藤

御影堂の裏にまわると、逆差しの藤(さかさしのふじ)と呼ばれる藤があります。高野山再興の功労者として知られる平安時代の高僧・定誉(祈親上人)にゆかりの藤です。

逆差しの藤

法華経の持経者であった定誉は長和5年(1016年)、観音像のお告げを受けて高野山に登りました。その頃の高野山は東寺との対立や火災によって荒廃していました。 定誉は高野山の再興を誓い、独自に寒さを防ぐ方法を編み出すなどして山内に常住しました。 また、願掛けとして、藤を逆さに植えました。不思議なことに、藤はそれでも芽を出しました。 そして、定誉の入山から7年後の治安3年(1023)、関白・藤原道長が高野山に参詣。これがきっかけで高野山は藤原氏の保護を受けるようになり、権力者の高野詣でが盛んになります。そして、藤の成長とともに伽藍の復興も進み、高野山は最盛期を迎えました。 逆さに植えても生えてきた藤の木は、天皇家にからみついて勢力を拡大させた藤原氏の生命力の象徴でもあるのかも知れません。

三鈷の松

御影堂と金堂の間、赤い玉垣で丸く囲まれた松の木は、高野山開創にゆかりの「三鈷の松(さんこのまつ)」です。

三鈷の松

三鈷の松には、以下の様な伝承が伝わっています。 空海は唐から帰国する際に、真言密教の布教に相応しい土地を探してほしいという願いをこめて、法具の三鈷杵(さんこしょう)を日本に向けて投げました。 後に空海が高野山の付近に来たところ、ある猟師(実体は狩場明神)から夜になると光る松のことを教えられます。紀州犬に案内されて丹生明神に会い、高野山を譲り受けた空海はこの場所で松に掛かっている三鈷杵を見つけます。 これこそが唐で投げたあの三鈷杵であり、空海はここに真言密教の道場を開くことを決断。高野山の開創となりました。 三鈷杵が掛かっていた松の葉は三鈷杵に似た三葉であり、「三鈷の松」として祀られました。

根本大塔

大塔(根本大塔)は、空海が密教道場のシンボルとして建設を始めた、日本で最初の多宝塔です。

根本大塔

完成は弟子の真然の代、887年頃と伝えられています。 現在の塔は昭和12年(1937年)の再建で、高さは48.5メートルです。 堂内は、立体の曼荼羅として構成されています。 根本大塔は、ソフトな側面を見せている大日如来(胎蔵界大日如来像)を本尊としていますが、その四方を取り囲むのはハードな側面を見せている仏像(金剛界四仏)です。 西塔とは逆の構図で「金胎不二」を表現し、さらに西塔とセットになることでも「金胎不二」を体現しています。 壇上伽藍には東塔という多宝塔もありますが、これは空海の入定から300年後に建立されたもの。空海が設計した「曼荼羅としての壇上伽藍」では、「根本大塔」こそが「西塔」と対になる「東塔」でした。 16本の柱には、それぞれ大菩薩が描かれ、壁の隅にはインドから密教を伝えた真言八祖(第八祖は空海)が描かれています。

高野四郎

大塔の南、金堂の南東には白い鐘楼が建っています。この鐘楼の鐘は「高野四郎」と呼ばれています。

高野四郎

初代の鐘は空海は発願し、真然が完成させました。 現在の鐘は戦国時代の天文16年(1547年)に鋳造されたものです。直径が212センチあり、当時は全国で4番目の大きさだったため、「高野四郎」の名がつけられました。 ここでは毎日5回(午前4時、午後1時、午後5時または6時、午後9時、午後11時)、時鐘が突かれています。 根本大塔の東側、少し低くなった所に3つのお堂が並んでいます。後醍醐天皇が建てた愛染堂、そして西行にゆかりの大会堂と三昧堂です。大会堂と三昧堂の間には、「西行桜」と呼ばれる桜の木もあります。

愛染堂

一番手前(西側)が愛染堂(あいぜんどう)で、本尊は恋愛を司る仏、愛染明王です。

愛染堂

この愛染明王は、鎌倉幕府を倒して建武の新政を始めた後醍醐天皇(1288-1339年)の等身大と言われています。 後醍醐天皇は新政を始めたばかりの建武元年(1334年)に、天下泰平と朝廷の繁栄を願ってここに愛染堂を建立させました。しかしその願いはかなわず、わずか2年後、南北朝時代という朝廷にとって最悪の乱世が始まってしまいます。 現在の建物は、江戸時代末期の嘉永元年(1848年)に再建されたものです。 愛染明王は、 金剛三昧院 の本尊でもあります。どんな仏なのか、なぜ恋愛を司るのかはそちらに書いたので、ご参照ください。とても高野山らしい仏です。

大会堂

愛染堂の隣にあるやや大きなお堂は、阿弥陀如来を本尊とする大会堂(だいえどう)です。

大会堂

大会堂の前身は1175年(安元元年)、鳥羽法王の第7皇女である頌子内親王(五辻斎院)が願主となり、鳥羽法王の菩提を弔うために創建した「蓮華乗院」です。 蓮華乗院の造営にあたっては、歌人の西行が奉行となり、勧進を勤めました。西行は出家前、頌子内親王の祖父・徳大寺実能の家人であり、鳥羽法皇の北面の武士でもありました。 もとは東別所(刈萱堂の辺り)に建てられましたが、1177年(治承元年)にこの場所に移築されました。その後、高野山から分派して対立していた根来寺(新義真言宗・大伝法院方)と和解するための談義の場としても使われました。 現在の建物は江戸時代末期・嘉永元年(1848年)の再建で、法会の際の集会所となっています。

三昧堂

大会堂の東には、三昧堂(さんまいどう)という小さなお堂が建っています。

三昧堂

もとは平安時代中期の延長7年(929年)、高野山の座主・済高(さいこう)が、「理趣三昧」という儀式のために建てたお堂です。 当初は総持院にありましたが、平安時代末期にこの場所に移築されました。この移築にも、隣の蓮華乗院(大会堂)の奉行だった西行が関わったと伝えられています。 現在の建物は、江戸時代後期、文化13年(1816年)の再建です。

西行桜

大会堂と三昧堂の間にある桜は「西行桜」と呼ばれています。

西行桜

鳥羽法皇の北面の武士だった西行は出家後、高野山に深く関わるようになりました。 ここには、西行が三昧堂の移築・修造をした際の記念に桜を植えたと伝わっています。その桜は三昧堂が再建された文化年間(江戸時代後期)に枯れてしまいましたが、後継の桜として植えられています。

東塔

東塔(とうとう)は、平安時代後期の大治2年(1127年)、白河法皇の発願で創建されました。

東塔

智泉廟

東塔の北東にある小さな廟は、空海の十大弟子の一人で甥でもある智泉(智泉大徳、789-825年)を祀っています。 智泉は14歳で空海の従者となり、16歳の時に空海とともに唐に留学するなど、優秀な弟子として活躍しました。最澄から空海へのとりなしを依頼されたこともあります。 しかし天長2年(825年)、空海に先立ち、37歳で亡くなりました。

蛇腹路

東塔から金剛峯寺のほうへ、東にのびるまっすぐな小道は「蛇腹路(じゃばらみち)」と呼ばれています。

蛇腹路

空海は東西に細長い高野山を「東西に龍の臥せるがごとく」と形容しました。「龍」の頭は壇上伽藍、尾は現在の金剛峯寺の東の蓮花院の辺りとされています。 この小道は腹の部分にあたることから、「龍の腹の小道」が転じて「蛇腹路」と名づけられました。

不動堂

不動堂は、高野山を代表する歴史建築の一つです。

不動堂
鎌倉時代初期の建久8年(1197年)、鳥羽上皇と美福門院の皇女である八条院(暲子内親王)の発願で建立されました。 当初は、高野山北部の一心院谷(徳川家霊台と女人堂の間)に阿弥陀堂として建てられましたが、その後この場所に移築され、不動明王が本尊となったことで「不動堂」となりました。 現在の建物は鎌倉時代後期の再建で、金剛三昧院の多宝塔と並び、高野山で最も古い建築物。国宝であり、世界遺産にも登録されています。 不動明王とともに安置された八大童子(はちだいどうじ)の像は、八条院と同時代の仏師・運慶(?-1224)の作として知られています(現在は霊宝館収蔵。なお、8体のうち2体は南北朝時代の補作)。

勧学院

壇上伽藍の南東にある勧学院は、通常は内部の拝観はできませんが、鎌倉時代や南北朝の歴史に興味がある方は、「勧学院」の門前に立ち寄ってみるのもいいかも知れません。

勧学院は、鎌倉中期の1278年、「元寇」で有名な北条時宗が、安達泰盛に命じて建立させたと伝わる修行の道場です。もともとは金剛三昧院にありましたが、1318年にこの場所に移されました。

移転を命じたのは後醍醐天皇の父、後宇多法皇。政治改革者として、そして真言密教の最高位の高僧(阿闍梨)として知られる異色のトップリーダーです。 安達泰盛や後宇多法皇など、勧学院に関わった人物たちは、鎌倉時代を代表する政治改革者でした。しかし、彼らの挫折から鎌倉幕府の崩壊が始まっており、勧学院が移転された背景にも、壮大な政治ドラマがあったと見られます。

勧学院では今でも、高野山僧侶の学問研鑽のための勧学会(かんがくえ)が毎年行われています。密教の経典や作法、空海の著作などについて学び、問答を行う行事です(非公開)。 本尊の金剛界大日如来像は平安時代中期を代表する仏像の一つで、重要文化財に指定されています。 ただし、勧学院が僧侶たちの修行の場として使われていることから、通常は一般拝観はできません。

蓮池

不動堂の南にある池は、かつて蓮の花が咲いていたことから「蓮池」と呼ばれています

蓮池

池の中には島があり、赤い橋で渡ることができます。島には祠があり、江戸時代の明和8年(1771年)に干ばつを終わらせたという善女竜王(ぜんにょりゅうおう)と仏舎利が祀られています。