高野七弁天(高野山)-空海の事績を追体験できる7つの弁天社-

「高野七弁天(こうやしちべんてん)」は、空海高野山を開創した際に作ったと伝えられている7つの弁天社の総称です。それぞれの弁天社がある場所は、山上での生活を維持するために必要な水の流れの要所にあたります。 空海や初期の高野山の人たちが、天空の都市・高野山を創り上げるためにどんな苦労をしたのかを伝えている「高野七弁天」。弘法大師・空海の事績を追体験するため、7つの弁天を巡る「高野七弁天めぐり」の巡礼も行われています。 壇上伽藍奥の院など、高野山の主要な見どころを一通り見終わって、高野山や空海の事績についてもっと深く知りたくなった方は、この高野七弁天めぐりをしてみるのもおすすめです。

高野七弁天の位置

高野七弁天への行き方

高野七弁天がある場所は、高野山・山上エリアの各地に散らばっています。地図で位置関係を見ると、7つの弁天で壇上伽藍を囲んでおり、弁天が本来どんな役割を担っていたのかが伝わります。 今は地下水脈になっていますが、かつてはこの7つの弁天がある水源からの水の流れが壇上伽藍の辺りで合流し、御殿川(おどがわ)となっていました。空海は、高野山を「東西は龍の臥せるごとくして、東流の水有り」と表現していたようです。 七弁天を結ぶと龍の姿になるといいますが、どうでしょうか。一部の弁天社は当初の場所から移転していますが、それほど遠くに移ったわけではないようです。 弁天社への行き方については、それぞれの弁天の項目でご案内します。

そもそも「弁天さん」とは?

「弁天」は仏教を守護する神で、七福神のひとつです。もともとはインド神話の創造の神「ブラフマー」の妻で、水と豊穣の女神「サラスヴァティー」でした。「聖なる川」の化身でもあります。川の化身なので、流れるもの(水に加えて、言葉や音楽など)を司る神として信仰されました。 やがて仏教にも取り入れられ、仏教が中国に伝わると「辯才天(辨才天・弁才天)」と表記されるようになります。「金光明経」という経典に記され、日本でも奈良時代頃から、この経典とともに弁才天信仰が広がりました。「金光明経(金光明最勝王経)」は正しい治世により国を豊かにすることを説いている経典で、聖武天皇が全国に建立させた国分寺の塔にも安置されています。 宗像三女神の一柱・市杵嶋姫命(いちきしまひめ)や瀬織津姫(せおりつひめ)とも習合していますが、どちらも水や川の神様です。 道路の整備が不十分だった時代、物資の運搬には水路を使うのが最も効率的でした。そのため「水」や「川」を司る弁才天は、富をもたらす交易の守り神として「弁財天」とも表記されるようになり、特に商人たちの信仰を集めることになります。 天台宗では財をもたらす福神「宇賀神(うがしん)」とも習合しました。さらに、同じ「天部(天界に住むインド系の神々)」である吉祥天も繁栄・幸運・富をもたらす女神なので、混同されることもあります。 「弁天さん」は「弁才天」または「弁財天」の略称で、親しみをこめた呼び方です。高野山の七弁天も、「○○弁天」と表記されたり「〇〇弁財天」「〇〇弁才天」と表記されたりします。 琵琶を弾く姿で描かれることが多いのは、インドのサラスヴァティーが音楽の神でもあったことに由来しています。 なお、弁天は男女を結びつけたり別れさせたりする「恋愛の神」だという話もあり、弁天が祀られている琵琶湖の竹生島や湘南の江の島、千葉の成田山新勝寺にはカップル同士で行かないほうがいいとか、高野七弁天めぐりも男女は離れて歩く方がいいとも言われます。 弁天は独身の女神なので、やきもちを焼くという考えから出てきた話のようですが、仏教の立場から見ると俗説にすぎないようです。仏教を守護する任務がある「天部の神」がそんな煩悩を持っていたら、「まだインドの神から脱皮できていないのか!」と上司(如来や菩薩たち)に怒られますよね。

「高野七弁天」が伝える空海の宗教戦略

「高野七弁天」は816年(弘仁七年)に始まった空海の高野山開創に伴ってつくられたと伝えられています。しかしいくつかの弁天社については、それより古い歴史を持っている可能性があります。 空海の開創以前から、高野山に近い「天野の里」には丹生都比売神(またはその原型の神)への信仰がありました。実はこの丹生都比売神も「水銀採掘の守り神」であると同時に「水の神」でもあり、水源がある峰々は山岳信仰の対象となっていました。いくつかの水源に、社のようなものが建っていた可能性は十分にあります。 高野山の開創では、伽藍を建設するための木材も、水の神が育んだ森から伐採することになります。その木材など様々な物資の運搬には、川も使います。そうしたことをする前に、先住の神々にしっかり根回しをしておかなければ、どんな祟りがあるか分かりません。 さらには、「丹生都比売神」を信仰する丹生氏などの地元の人々が、満足する形で開発をすすめる必要もあります。 そこで空海は、特に壇上伽藍の周囲に住む「水の神」を弁才天と一体化させて密教の神に昇華し、立派な「弁天社」を建てて敬うことにしたのです。 高野山の開創と並行して進められていた東寺五重塔の建設に伴って、空海が稲荷信仰の普及に協力したのと同じ構図です。 「高野七弁天」は、高野山にとって新参者だった空海が、地元の人々や神々との摩擦を起こすことなく新しい宗教都市を築くために考えた、努力と工夫の証だったのです。

山頂に鎮座する七弁天の代表格「嶽弁天社」

それでは、西側から順に、ひとつひとつの弁天社を見ていきましょう。 最初は、嶽弁天社(だけべんてんしゃ)。嶽弁才天社・嶽弁財天社とも書きます。この弁天社については「嶽弁財天社」と表記するのが正式のようです。この嶽弁財天社に行くには、ちょっとした登山をすることになります。

嶽弁天社

嶽弁天社が立つ場所は、標高984メートルの山の頂上。他の6つの弁天社よりも行くのが大変ですが、その分、最もオリジナルに近い形で残っている弁天社です。「高野七弁天巡り」では一番最後にされることも多いのですが、他の弁天社でも空海の時代を想像しやすくするために、最初に登ってみるのもおすすめです。 高野山の西の玄関口・大門のすぐ近くに入り口の鳥居があり、そこから徒歩30分のハイキングです。 北の玄関口・女人堂から行くこともできます。女人堂から嶽弁天を通って大門に行くトレイルは、女人禁制の時代に女性たちが巡り歩いた「女人道」の一部でもあるのです。 このページでは、大門をスタート地点として、嶽弁天経由で女人堂まで「女人道」を歩き、その後町の中を一周するコースをご案内します。こうすると、壇上伽藍の正式な参拝方法と同じ「時計回り」になります。 おそらく空海も、ほぼ同じ道を歩いたのだろうと想像しながら「女人道」を登っていきます。とはいえ今は、稲荷神社のように鳥居が立ち並ぶ道になっています。 途中にある「札場跡(ふだばあと)」は、かつて町石道の迂回ルートとつながっていた場所です。 登り始めてから30分前後で山頂に着きます。この山は、その名も「弁天岳」で、高野山をとりまく「外八葉(そとはちよう)」と呼ばれる山々の一つです。壇上伽藍の根本大塔などを見下ろすことができます。 山頂にある、木立に囲まれた小さな弁天社が嶽弁天社です。 この弁財天は、大海人皇子(のちの天武天皇)に勝利をもたらしたと伝わる「天河弁財天社」(奈良県天川村)から空海が勧請し、天河弁財天社の千日参籠で使った宝珠を埋めたと伝えられています。もっとも、場所が場所だけに、それ以前から山岳信仰の祠はあったことでしょう。 嶽弁天社はその後も山岳信仰(修験道)の聖地のひとつだったようで、妙音坊(みょうおんぼう)という天狗が見守り続けてきたという言い伝えもあります。山岳信仰とも結びついたのですね。

大蛇信仰の二面性を伝える「首途弁天社」

「高野七弁天めぐり」の2つ目としてご紹介するのは、壇上伽藍の北にある首途弁天社(かどでべんてんしゃ)です。嶽弁天から女人堂までは「女人道」を歩き、その後バス通りを南東に進みます。

首途弁財天社

バスで直行する場合は、「浪切不動前」停留所と「高野警察前」停留所のちょうど中間あたりにあります。車で行く場合は、町役場駐車場が近いです。 空海が自ら彫った仏像で有名な南院(波切不動尊)の近くに、福智院という宿坊があります。その門前(駐車場の奥)に「首途弁天社(首途弁財天社)」があります。 「首途」と書いて「かどで」と読みます。独特の読み方なので「門出弁天」とも表記されます。旅の安全祈願をかなえてくれる弁天様だそうです。近世以降は、高野山の北の玄関は女人堂でしたが、空海の時代はこの辺りだったのかも知れません。 その昔、高野山には大蛇(または龍)が住んでいたそうですが、その蛇が頭を出していたことから「首途」と表記されたとも言われます。日本には縄文時代から蛇を崇める信仰がありましたが、蛇は湿地に生息することから、水神とされてきました。この「首途弁天」がある場所は、高野山開創以前の水神信仰の聖地だった可能性もあります。 一方、その蛇(龍)が悪さをしていたので、空海が調伏して鎮めたという言い伝えも記録されています。「弘法大師の蛇退治」の話は奥の院蛇柳数取地蔵にもあります。 脱皮を繰り返す蛇は、死と再生の象徴。そして、恩恵と脅威の二面性を持つ自然の象徴でもあります。 壇上伽藍の東には「蛇腹道」という道もあり、とにかく高野山は蛇との縁が深かったようです。 この辺りは今でも水が湧いているので、空海の時代も重要な水源のひとつだったのでしょう。天候によっては川が暴れることもあったかもしれません。

水上交通の要所に睨みをきかせた「尾先弁天社」

首途弁天の次は、そこから歩いてすぐの場所にある「尾先弁天社(おさきべんてんしゃ)」です。「高野警察前」停留所と「千手院橋」停留所のちょうど中間辺りにあります。有名な宿坊寺院のひとつ、一乗院の山門の右側です。

尾先弁天社

首途弁天が大蛇の頭が出ていた場所なら、ここからは尻尾が出ていたのでしょうか? とはいえ、この弁天社そのものはそれほど古い歴史を持っているわけではなく、昭和30年ごろに剣先弁天社から分祀された遥拝所です。 本来の弁天社である剣先弁天社は、一乗院の隣にある蓮花院(徳川家の菩提寺だった宿坊寺院)の裏山にあります。蓮花院の庭園からの小道を登っていった先です。ここは弁天岳(嶽弁天がある場所)に続く尾根の先端にあたり、東西に流れる御殿川と南北に流れる千手院谷の川の合流地点を見下ろせる場所でした。

日本独自の「十五童子信仰」を伝える「圓山弁天社」

尾先弁天から南に進むと、千手院橋の交差点があります。ここを東に進むと小田原通りになります。2つ目の道を右に入っていくと金剛三昧院に行けますが、その途中の左手に小高い丘があります。 この丘(圓山)の上にあるのが「圓山弁天社(まるやまべんてんしゃ)」です。「圓山弁財天社」「丸山弁財天社」とも表記されます。

圓山弁天社

金剛三昧院の北にある分岐を熊野古道小辺路とは逆に進み(金剛三昧院から来た場合は右折)、左手(北側)にある最初の民家の横にある階段から登っていきます。 圓山弁天社のご神体は弁天(弁財天)に加えて、弁天に仕える十五人の童子です。この「十五童子」のそれぞれの名は、「印鑰童子」「官帯童子」「筆硯童子」「金財童子」「稲籾童子」「計升童子」「飯櫃童子」「衣裳童子」「蚕養童子」「酒泉童子」「愛敬童子」「生命童子」「従者童子」「牛馬童子」「船車童子」です。童子たちの名前の羅列を見て見るだけでも、弁財天信仰の特徴が分かります。 十五童子は、日本で作られた宇賀弁才天の偽経によって現れたものです。つまり大陸のオリジナルの仏教ではなく、日本独自の中世の信仰ということになります。 圓山弁天社の弁天も十五童子も、空海が高野山に呼び寄せたと伝わります。 圓山があるのは、高野山をとりまく山々の「外八葉」の一つ宝珠ヶ峰(ほうしゅがみね)の尾根の先端部分です。御殿川が流れる北側の小田原谷(現在の小田原通りがある辺り)、西側の浄土院谷(じょうどいんだに)、東側の湯屋谷が合流する地点を見下ろす、「水の要所」です。

壇上伽藍建設の水揚げ場だった?「綱引弁天社」

「高野七弁天巡り」の次の目的地は、金剛峯寺の南東、南都銀行高野山支店の脇にある小さな社、「綱引弁天社(つなひきべんてんしゃ)」です。

綱引弁天社

綱引弁天社は「船引弁財天社」とも呼ばれます。空海の時代、壇上伽藍を建設する際、木材や物資の運搬に舟も使われ、この辺りで水揚げされたのでしょうか。 この綱引弁天のご神体は、財をもたらす福神、宇賀神です。頭は女性の顔、身体は蛇という姿で描かれ、中国の神話の女神「女媧(じょか)」とも共通しています。女媧は、泥をこねて人間を創造したといわれる創造神です。 宇賀神は、もともと日本にいた神ではなく、弁財天との習合によってつくられた神、という説もある神様です。

共同浴場を見守っていた「湯屋谷弁天社」

綱引弁天からは、壇上伽藍の西側にある「湯屋谷弁天社(ゆやだにべんてんしゃ)」を目指します。 水神を巡る旅なので、「蛇腹道」を歩いて壇上伽藍の東塔、根本大塔、金堂、中門を経由するのもいいでしょう。中門を出たらバス通りを西に進みます。「愛宕前」停留所のすぐ近くにあるのが「湯屋谷弁天社(湯屋谷弁財天社、湯屋谷弁才天社)」です。 車で行く場合は、愛宕第1駐車場、愛宕第2駐車場がすぐそばにあります。

湯屋谷弁天社

「湯屋谷」というのはこの辺りの昔の地名です。壇上伽藍で修行する人たちのための共同浴場があったようです。 湯屋谷弁天の境内は、これまでに見てきた弁天社よりも少し広めですが、弁天社そのものはそれほど大きくありません。かつてはこの場所ではなく、もっと奥にある愛宕権現社の、東側の丘の上に弁天社があったといいます。 愛宕権現は、イザナミと地蔵菩薩が習合した神で、山岳信仰と修験道で信仰されました。戦国時代には軍神としても祀られましたが、明治の廃仏毀釈の主要ターゲットのひとつとなりました。

水の女神が軍神になった?「祓川弁天社」

「高野七弁天めぐり」のしめくくりは、祓川弁天社(はらいかわべんてんしゃ)です。湯屋谷弁天社から少し西に進んだ弁天公園にあります。七弁天めぐりのスタート地点、大門の手前です。

祓川弁天社

実はこの祓川弁天社も、湯屋谷弁天社や尾先弁天社と同じで、オリジナルの場所にあるわけではありません。もともとは、大門の北の奥にあった社が、明治28年と昭和55年に移転され、現在の場所に置かれました。 祓川弁天社の本尊は「八臂(はっぴ)弁財天」。つまり八本の腕がある弁才天で、これは「宇賀弁才天」の特徴のひとつです。頭上に眷属の蛇が乗っており、像の前にも蛇がとぐろを巻いています。 八臂弁財天が八つの手で持っているのは、弓や矢、刀、矛、斧、長杵、宝珠、鍵です。ほとんどが武器です。水の女神であるはずの弁天様が、なぜ武器を持っているのでしょう? 実は八臂弁財天は、もともとの二臂弁才天(腕が二本の普通の弁天)の「国家を豊かにする」という役割に加えて、「国を守る戦いの神」としての役割も持っているのです。湯屋谷弁天社の近くの愛宕権現と似たような軍神で、戦乱が多かった鎌倉時代から戦国時代にかけて、特に武士の間で信仰が広がりました。 安芸の厳島(宮島)にある大願寺/厳島神社、琵琶湖の竹生島にある宝厳寺/竹生島神社、湘南の江の島にある江島神社が「日本三大弁天」として知られていますが、どれも武家から強く信仰された八臂弁財天の寺社です。 また、こちらの弁才天には圓山弁天社のような「十五童子」ではなく、16体の童子が従っています。十五童子のリーダー役の「善財童子」が加わっているためです。 脇には3つの小さな祠があります。「御鏡大明神」「玉房大明神」「稲荷大明神」で、どれも稲荷神です。密教と稲荷神の関係については、清高稲荷神社のページをご参照ください。 密教、弁天信仰、そして稲荷信仰という3つの信仰は、どれも密接に結びついています。