- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

山上の観光スポット

- Zue Maps 高野山 -

このページでは、高野山・山上の主な観光スポットをご案内します。 高野山は東西に長い宗教都市ですが、その西部は表玄関の大門と、最も重要な伽藍が集中している壇場伽藍があり、参拝・観光の中心となるエリアです。

高野山西部

高野山の西部は、表参道の町石道から参詣する場合の入り口にあたります。奥の院と並ぶ聖域「壇場伽藍」があります。

大門

高野山の総門、大門(だいもん)。高さ25メートル、朱塗りの堂々たる楼門です。

「大門」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 大門 大門の仁王像と「阿吽」について 嶽弁財天社

壇場伽藍

壇場伽藍は真言密教で最も重要な聖地のひとつ。この場所自体が壮大な曼荼羅として設計されています。

壇場伽藍(東塔周辺)
壇場伽藍(六角経蔵周辺)

この曼荼羅の核になっているのが、根本大塔と西塔。この2つの多宝塔は、真言密教の根本仏・大日如来の2つの側面を象徴しています。 根本大塔が象徴しているのは、母親の胎内のような優しい側面。仏教用語で「胎蔵界」と呼ばれます。どんなものでも受容する大日如来の慈悲のもとに、悟りの本質が育まれるとされます。

根本大塔(壇場伽藍)

一方で西塔は、何のものにも屈しない、強い智慧と意志の側面を象徴します。こちらは「金剛界」と呼ばれます。

西塔(壇場伽藍)

「胎蔵界」と「金剛界」は一見対照的な世界ですが、真言密教では、この「ソフト」と「ハード」が実は一体であるということをとても大切にしています。 この思想については、「真言密教とは」 のページの 「LGBTQも救える?「金胎不二」の大革命」 の箇所も参考にしてください。 壇場伽藍では、この思想を可視化させるための様々な工夫が凝らされています。 根本大塔は、ソフトな側面を見せている大日如来(胎蔵界大日如来像)を本尊としていますが、その四方を取り囲むのはハードな側面を見せている仏像(金剛界四仏)です。 一方で西塔は、ハードな側面を見せている大日如来(金剛界大日如来像)を本尊としつつ、その周囲をソフトな仏像群(胎蔵界四仏)が囲んでいます。 つまり「胎蔵(ソフト)」と「金剛(ハード)」という対照的な側面が、根本大塔と西塔のそれぞれの内部でいったん融合し、さらにこの2つの多宝塔を配置した「壇場伽藍」という場で更に大きく融合して、大日如来の多様性が表現されているのです。 なお、壇場伽藍には「東塔」という多宝塔もありますが、これは空海の入定から300年後に建立されたもの。空海が設計した「曼荼羅としての壇場伽藍」では、「根本大塔」こそが「西塔」と対になる「東塔」でした。 伽藍は何度か火災に見舞われましたが、以下の建築が国宝や重要文化財に指定され、世界遺産に登録されています。

不動堂

国宝・世界遺産 1197年または1198年建立 14世紀再建 1908年移築

山王院本殿

重要文化財・世界遺産 1522年再建

西塔

重要文化財 887年建立 1834年再建

建築群についての詳細は、 壇場伽藍 のページにまとめてあります。

勧学院

壇場伽藍の南東にある勧学院は、鎌倉時代の執権、北条時宗が建立させた修行の道場です。 当初は金剛三昧院にあり、文保2年(1318年)に後宇多法皇の命でこの場所に移築されました。 本尊の金剛界大日如来像は平安時代中期を代表する仏像の一つで、重要文化財に指定されています。 ここでは今でも、高野山僧侶の学問研鑽のための勧学会(かんがくえ)が毎年行われています。密教の経典や作法、空海の著作などについて学び、問答を行う行事です(非公開)。

高野山霊宝館

霊宝館(れいほうかん)は、高野山が所蔵している仏像や仏画などを保管・展示している建物で、博物館に相当します。

宇治の平等院を模した建築は大正時代の開設時に建てられたものです。

高野山中心部

高野山のへそは、千手院橋の交差点です。高野山駅から来たバスは、千手院橋から西の大門に向かうルートと、東の奥の院に向かうルートに分かれます。 商店や飲食店、宿坊もこの辺りに集中しています。

高野山大師教会

大師教会(たいしきょうかい)は、高野山真言宗の布教活動の総本部です。

高野山大師教会

大講堂は大正14年(1925年)に建立されたもので、弘法大師を本尊としています。 大講堂の一番奥にある授戒堂では毎日7回、在家信者を対象とした「菩薩十善戒(してはならないことをまとめた十の戒め)」の儀式が行われています。 他にも、日帰り修行体験や写経などを行うことができます。

六時の鐘

大師教会の北東にある石垣の上には、「六時の鐘(ろくじのかね)」と呼ばれる鐘楼があります。

六時の鐘

元和4年(1618年)、福島正則が両親の菩提を弔うために建立しました。 現在の鐘は寛永7年(1640年)に福島正則の子、福島正利が鋳造しなおしたもので、珍しい仮名交じり文の鐘銘が入っています。 現在でも2時間毎に、時刻を知らせています。

金剛峯寺

六時の鐘からさらに北東に進むと、金剛峯寺(こんごうぶじ)があります。「金剛峯寺」とは、もともとは高野山全体の寺号でしたが、明治時代の神仏分離に伴う再編で、高野山真言宗の総本山である寺院の名称となりました。

金剛峯寺

現在も高野山の土地は金剛峯寺が所有し、金剛峯寺の宗務所が様々な業務を司っています。 寺院としての金剛峯寺は、安土桃山時代の文禄2年(1593年)に創建された「青巖寺」と「興山寺」いう二つの寺院が合併したものです。 文禄4年(1595年)には豊臣秀吉への謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次が、ここで切腹させられています。 現在の本殿は江戸時代末期の文久3年(1863年)に再建されました。

小田原通り

金剛峯寺から高野山のへそ、千手院橋を通って奥の院へと東西にのびる道は高野山のメインストリートで、「小田原通り」と呼ばれています。

小田原通り

「小田原」の由来となっているのが、千手院橋のすぐ東にある宿坊寺院「高室院(たかむろいん)」です。

高室院

12世紀に、村上天皇の子孫である房海僧正が創建しました。その後、天河弁財天女の化現と言われた大聖僧正(高野山第9世)などの高僧を輩出しています。

高室院

安土桃山時代の天正18年(1590年)、小田原北条氏第五代・北条氏直は豊臣秀吉の小田原征伐を受けて降伏。高野山へ流罪となりました。その北条氏直が蟄居していたのが、この高室院です。 それ以降高室院は「小田原坊」とも呼ばれ、関東との関わりが深い宿坊となりました。明治時代には近隣の大乗院と発光院を吸収合併しました。その後本堂は焼失し、現在の建物は昭和59年(1984年)の再建です。

金剛三昧院

金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、高野山大学の南東の奥まった場所にある宿坊寺院。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つです。

金剛三昧院

「金剛三昧院」についての詳細は、以下のページにまとめてあります。 金剛三昧院の歴史 金剛三昧院の多宝塔 「恋愛成就の仏」愛染明王

高野山北部

高野山の北部は、高野山駅から中心部へ向かうルート上にあり、江戸時代の京街道にも続いています。バス専用道路と高野警察前の間には、女人堂や徳川家霊台があります。

徳川家霊台

金剛峯寺から北に進み、福智院のあたりから、高野山駅に向かって西に進んだところに徳川家の霊台があります。こちらも世界遺産の構成要素の一つです。 徳川家康と徳川秀忠の霊を慰めるため、三代将軍・徳川家光が建立しました。 寛永20年(1643年)に建てられた一重宝形造り(いちじゅうほうぎょうづくり)の建物が二つ並んでいて、右が家康、左が秀忠の霊舎です。 東側にはかつて家光以降の将軍や御三家を祀る尊牌堂(そんぱいどう)もありましたが、明治21年(1888年)に焼失しました。

女人堂

女人堂(にょにんどう)は、高野山が女人禁制だった時代、高野山に入れない女性のために設けられた参籠所です。女性たちはここで、一晩中真言を唱えていました。 かつては高野七口のそれぞれにありましたが、現存しているのは京街道(東高野街道、不動坂口)のこの女人堂だけです。 明治5年に女人禁制が解かれてからは、高野山参拝者の休憩所として利用されました。 高野山駅からバスに乗ると、バス専用道路を通った後、この女人堂の脇から高野山に入ることになります。

高野山東部

高野山の東部は、高野山町石道の最後の部分にあたり、奥の院へと続いています。宿坊が多いエリアです。

刈萱堂

刈萱堂(かるかやどう)は、奥の院の入り口・一の橋の300メートル西側にあり、浄瑠璃などで知られる「石童丸物語」の舞台です。

刈萱堂

平安時代末期、九州・太宰府の苅萱の関の関守だったと加藤左衛門繁氏は、世を儚んで出家し、苅萱道心と称して高野山で修行の生活を送っていました。 その直後に生まれた息子の石童丸は14歳の時、父と会うため高野山へやってきます。女人禁制のため同行の母は学文路(かむろ)の宿に残り、一人で登ったところ、奥の院の御廟の橋で僧侶と出会いました。 この僧侶こそが苅萱道心であり、石童丸の話から我が子だと察しますが、苅萱道心は世を捨てた身であったため、石童丸に「そなたの父は死んだ」と偽りました。 石童丸が山を下りると、長旅で病んだ母は亡くなっていました。石童丸は母の遺骨を持って再び高野山に登り、苅萱道心に弟子入りし、道念と名乗ります。実の親子であることを伏せたままの師弟関係でした。 やがて刈萱道心は、親子の情愛にひかれて修行がおろそかになることを恐れて高野山を去り、信州の善光寺に赴きます。そこで地蔵菩薩を刻み、1214年に信州の「刈萱堂往生寺」で83歳で亡くなりました。道念(石童丸)の父であることは、生涯伏せたままでした。 その後道念は信州の方角に紫雲がなびいたのを見て善光寺に行き、父の彫刻を手本に、地蔵菩薩を刻みました。 ここ高野山の刈萱堂は、刈萱道心が高野山で修行していた場所と伝わっていて、「石童丸物語」を絵で紹介しています。出口の手前には、父子が刻んだという「刈萱親子地蔵尊」が安置されています。 この絵物語を見た人々(特に女性)の多くが、感動して真言宗に入信したと伝わっています。

不動院

不動院は、小田原通りから少し南の奥まった所にある静かな宿坊寺院です。本尊は弘法大師が彫ったという不動明王で、開帳は100年に1度。 境内には、鳥羽法皇の后・美福門院(藤原得子)の陵墓(高野山陵)があります。 保元の乱の原因を作ったとされる美福門院は、高野山に深く帰依していました。壇場伽藍にある「六角経蔵」も、もともとは美福門院が鳥羽法皇の菩提を弔うために建立したものです。 美福門院は、「鳥羽殿に自分と得子を葬るように」という鳥羽法皇の遺言に背いてまで、高野山への納骨を希望していました。 美福門院の納骨は、高野山のライバルである比叡山から抗議の声が上がり、女人禁制である高野山も拒否の姿勢を示しましたが、最終的には美福門院の遺志が通り、高野山に納められることになりました。

奥の院

奥の院は、空海が今もなお、人々の幸せを願って瞑想を続けていると言われる場所。その弘法大師御廟がある特別な聖地です。

空海だけではありません。弘法大師御廟に続く参道の周辺には、平安時代以降の歴史に名を刻んだ武将や高僧、そして女性たちの墓所や供養塔がずらりと並んでいます。 平敦盛、熊谷直実、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、石田三成、明智光秀、親鸞、法然、お江、千姫、織田信長、豊臣秀吉などなど・・・ さらには、日本人が海外に出て戦った戦争の敵味方の供養碑や、阪神淡路大震災、東日本大震災などの大災害の犠牲者の供養塔もあります。

奥の院についての詳細は、 奥の院 をご覧ください。