- 高野山の散策地図と歴史探訪ガイド -

高野山観光のモデルコース

- Zue Maps 高野山 -

このページでは、高野山の主要スポットを日帰り~1泊2日で効率的に巡るモデルコースをご紹介します。 高野山は広いエリアに様々な観光スポットが散らばっていますが、ポイントを絞れば日帰りで空海ゆかりの見どころを巡ることもできますし、宿坊に泊まってじっくり観光することも可能です。 以下のモデルコースは正式な参拝の流れでもありますので、参拝・観光に使える時間に応じて、興味のある見どころをピックアップしてルートプランを立ててみてください。時間が限られている方は、以下の地図に赤いラベルで表示されている必見スポットを巡るだけでも、高野山のアウトラインを把握できます。 スタート地点は西端の大門。次に最も重要な伽藍が集中している壇上伽藍を経由し、その少し北にある世界遺産の徳川家霊台などに寄り道してから、空海や戦国武将たちがいる奥の院を目指します。平安時代→江戸時代→鎌倉時代→戦国時代と、時代を行ったり来たりする歴史散策にもなります。

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モデルコース(全体)


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ルート地図① 高野山駅~大門

まずは、電車(南海高野線)と高野山ケーブルで高野山に来た方のために、スタート地点の大門までのルートをご案内します。 高野山駅からは、「南海りんかんバス」の「千手大門線(31系統または32系統)」に乗ります。バスの行き先は「大門南駐車場」です。 バスに何度か乗る予定があり、鉄道とバスのセット券を持っていない方は、駅前で一日フリー乗車券を買っておくと色々とお得になるかもしれません。

ルート地図① 高野山駅~大門

このバスは、高野山の中心部を経由していきます。この後の観光で歩くのとほぼ重なるルートなので、宗教都市・高野山の雰囲気や距離感などをつかむためのオリエンテーションにもなります。 終点のひとつ手前の「大門」バス停で下車します。

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大門

高野山の総門、大門(だいもん)です。ナビ地図で表示 高野山の表参道「高野山町石道」を登ってきた場合、または国道480号を車で走ってきた場合、「ついに高野山にたどりついた!」という気分にさせてくれるのが、この大門です。 バスで来た方も、「高野山に正面から入る」という気分を味わうためには、「大門」停留所から直接大門を目指すのではなく、車道沿いを迂回していったん正面に出るのがおすすめです。 車で来た方は、少し南のほうに「お助け地蔵前駐車場」や「大門南駐車場」がありますが、少し東(町の内側)にある「愛宕第1駐車場」も距離はほとんど変わらないので、空いている時期であれば、そちらを使った方が後で便利かもしれません。どれも無料駐車場です。

大門周辺

大門は高さ25メートル、朱塗りの堂々たる楼門で、江戸時代に掘られた仁王像も必見です。 南側の広場に立つ句碑を見てみたり、北側の鳥居をくぐって、「女人道」を少し登った先にある「嶽弁財天社」に立ち寄ってみるのもいいかもしれません。

大門をくぐった先の左側には、立派な公衆トイレもあります。 和歌山県公式観光サイト 大門公衆トイレ(外部サイト)


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ルート地図②大門~壇上伽藍

「大門」を堪能したら、真言密教で最も重要な聖地、壇上伽藍(だんじょうがらん)に向かいます。

ルート地図②大門~壇上伽藍

スープの次にいきなりメインディッシュ、という感じですが、高野山はまず壇上伽藍ができて、後から宗教都市や奥の院が形成されていった経緯があるので、これでいいのです。 バスを利用する場合は、「大門」停留所で乗って3つめの停留所、「金堂前」で下車します。もっとも、大門から壇上伽藍の入り口、中門(ちゅうもん)までは数百メートルの距離なので、歩いても10分もかかりません。 車の場合は、いったん駐車場に戻って、中門の南にある駐車場まで車で移動するという方法もあります。


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壇上伽藍

壇上伽藍は、空海が密教修行の中心地としてつくった神聖な場所。高野山でも特に重要な建築物が集まっています。ナビ地図で表示

南の中門から入って、時計回りに一周するのが正式なルートです。

壇上伽藍の参拝ルート

空海はこの壇上伽藍を、密教の真髄を(言葉でなく)ビジュアルで伝えるための壮大な曼荼羅として設計しました。 この曼荼羅をどう体感するのがいいか、以下のページで参拝ルート順にご案内しています。


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ルート地図③ 壇上伽藍~高野山霊宝館

壇上伽藍の参拝・観光が終わったら、博物館で貴重な美術作品を堪能してみるのもいいでしょう。

ルート地図③ 壇上伽藍~高野山霊宝館

中門から出たら、壇上伽藍の南東にある「高野山霊宝館」を目指します。または、壇上伽藍を蓮池の南東(勧学院の西)から出て、ショートカットしても行けます。

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高野山霊宝館

霊宝館(れいほうかん)は、高野山が所蔵している仏像や仏画などを保管・展示している建物で、博物館に相当します。ナビ地図で表示 宇治の平等院を模した建築は大正時代の開設時に建てられたもの。 高野山霊宝館には21件の国宝、142件の重要文化財などが所蔵されています。どれも歴史的にも美術的にも、非常に価値が高いものばかりです。 運慶や快慶の仏像群、空海や源義経の直筆の書、武田信玄やお市の方の肖像画などは特に知られています。


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ルート地図④ 高野山大師教会~金剛峯寺

高野山霊宝館の北側、壇上伽藍の東側には、密教の修行体験ができる「高野山大師教会」があります。

高野山大師教会~金剛峯寺

大師教会の脇を通り、福島正則が建立した「六時の鐘」を経由して、高野山真言宗の中枢「金剛峯寺」に向かいましょう。

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高野山大師教会

大師教会(たいしきょうかい)は、高野山真言宗の布教活動の総本部です。ナビ地図で表示 大講堂は大正14年(1925年)に建立されたもので、弘法大師を本尊としています。 大講堂の一番奥にある授戒堂では毎日7回、在家信者を対象とした「菩薩十善戒(してはならないことをまとめた十の戒め)」の儀式が行われています。

高野山大師教会

他にも、日帰り修行体験や写経などを行うことができます。


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赤地蔵尊

大師教会の南東の角を曲がって北に進むと、左側に、赤を基調とした神社のような建物があります。 入り口が鳥居のような形をしていますが、これは常喜院(じょうきいん)の地蔵堂です。赤地蔵や水かけ不動尊、聞耳地蔵尊、さすり地蔵が祀られています。 本尊の赤地蔵は全身が真っ赤で可愛らしいですが、この「朱色」には高野山の歴史にとって特別な意味があります。詳しくは丹生都比売神社の歴史と空海への「土地譲り」の項目をご参照ください。

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六時の鐘

大師教会の北東にある石垣の上には、「六時の鐘(ろくじのかね)」と呼ばれる鐘楼があります。ナビ地図で表示

六時の鐘

元和4年(1618年)、福島正則が両親の菩提を弔うために建立しました。 現在の鐘は寛永7年(1640年)に福島正則の子、福島正利が鋳造しなおしたもので、珍しい仮名交じり文の鐘銘が入っています。 現在でも2時間毎に、時刻を知らせています。


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ルート地図⑤ 金剛峯寺~徳川家霊台

高野山真言宗の総本山、金剛峯寺を拝観したら、時間に余裕があれば、高野山の北側のエリアにも立ち寄ってみましょう。北側エリアには、世界遺産の「徳川家霊台」などがあります。

金剛峯寺~徳川家霊台

もっとも、日帰り観光などで時間が限られている方は、このまま東に進んで奥の院に向かうのがおすすめです。それでも、正式な参拝としてはまったく問題はなく、北部エリアには奥の院の後で向かってもいいからです。 高野山の北部は、高野山駅と中心部を結ぶルート上にあるため、電車とケーブル、バスを乗り継いで高野山に来た方は、帰りのバスに乗る前に立ち寄るのもいいでしょう。 このページでは、先に北部エリアに立ち寄るルートをご案内します。

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金剛峯寺

六時の鐘の東に、金剛峯寺(こんごうぶじ)に入っていく参道があります。ナビ地図で表示

金剛峯寺

「金剛峯寺」という名称には二つの意味があります。高野山全体を意味する寺号としての「金剛峯寺」と、個別の寺院の名称としての「金剛峯寺」です。 江戸時代までの歴史の話に出てくる場合は前者で、明治時代以降から現代の話の場合は後者になります。 明治時代の神仏分離に伴う再編で、「金剛峯寺」は高野山真言宗の総本山である寺院の名称とされたためです。 とはいえ、現在も高野山の土地は金剛峯寺が所有し、金剛峯寺の宗務所が様々な業務を司っています。宗教的にも業務的にも、高野山の中枢機能を担っている寺院です。 現在の金剛峯寺がある場所は、歴史的に見ても貴重な史跡です。 もともとここには、空海の後継者(甥とも言われます)で第2世座主だった「真然」の廟所がありました。 平安後期の1132年には、真言宗の立て直しを目指した覚鑁(興教大師)が、密教革命の拠点として大伝法院を建立。しかし革命は失敗し、大伝法院は根来寺に移りました。 そして安土桃山時代の1592年、豊臣秀吉が母のために「剃髪寺」を建立。その後「青巌寺」という名称になりましたが、1595年には豊臣秀吉への謀反の嫌疑をかけられた豊臣秀次が、この青巖寺で切腹させられています。 現在の本殿は、江戸時代末期の1863年に再建されたものです。


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綱引弁天社

金剛峰寺の東門を出ると車道があります。この道を北に進むと徳川家霊台の方面に行けますが、少し寄り道して、南側にある弁天様にも寄ってみましょう。南都銀行高野山支店の脇にある小さな社、「綱引弁天社(つなひきべんてんしゃ)」です。 綱引弁天社は、空海の高野山開創に伴って祀られたという「高野七弁天」のひとつ。「船引弁財天社」とも呼ばれ、福徳と智慧を得る神とされます。 他の弁天もそうですが、この網引弁天の名称も「水源」や水の流れに関係していたと思われます。空海の時代、壇上伽藍を建設する際、木材や物資の運搬に舟も使われ、この辺りで水揚げされたのでしょうか。 小さな社ですが、高野山開創の時代に思いを馳せることができる場所のひとつです。 壇上伽藍建設の水揚げ場だった?「綱引弁天社」


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首途弁天社

金剛峯寺東側の車道を北に進むと、バスが通っている道と交差します。「高野警察前」停留所の辺りです。 この交差点の左奥には宿坊「福智院」がありますが、この福智院の門前(駐車場の奥)にも「高野七弁天」が祀られています。「首途弁天社(かどでべんてんしゃ)」です。 「首途」と書いて「かどで」と読むのですが、独特の読み方なので「門出弁財天社」とも表記されます。旅の安全祈願をかなえてくれる弁天様だそうです。 空海の時代は、この辺りに水源のひとつがあり、高野山の北の出口もあったのかも知れません。 御神体は秘仏とされています。 大蛇信仰の二面性を伝える「首途弁天社」


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南院(波切不動尊)

「首途弁財天」からバス通りを北西に進むと、「浪切不動前」停留所の手前の左側(北側)に「南院(なんいん)」という宿坊があります。 南院は「近畿三十六不動尊霊場」の結願の寺院。本尊は「浪切不動明王」と呼ばれ、バス停の名前の由来にもなっている有名な仏像です。 「浪切不動明王」は、空海が自ら彫ったと伝わる不動明王像です。唐から帰国する際、師匠の恵果(けいか)から授かった霊木を彫ってこの仏像を造り、船の先端部分に据えたといいます。 西洋帆船の船首像のようなものですね。この「浪切り不動」のご利益があったのか、船は波を切って順調に進み、空海は無事に帰国することができました。 当初は壇上伽藍の山王院に鎮座していましたが、平安時代にこの南院にやってきました。毎年6月28日に開帳されます。「木造不動明王立像」として重要文化財にも登録されています。


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ルート地図⑥ 徳川家霊台~女人堂

世界遺産・徳川家霊台に行くには、「波切不動」停留所の近く、波切不動尊が鎮座している「南院」の左側(北西側)から北への脇道を入っていきます。

徳川家霊台~女人堂

徳川家霊台を参拝・観光した後、いったんバス通りに戻り、「金輪塔」が立つ金輪公園を左に見ながら、宗教都市・高野山の北西端にあたる女人堂に向かいます。

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徳川家霊台

「徳川家霊台(とくがわけれいだい)」は、戦国の世を最終的に終わらせた徳川家康・徳川秀忠父子を祀る霊廟です。 江戸時代には、徳川将軍家の威光を西国に伝える「西の東照宮」としての役割を持ちました。当時最先端の装飾技法によるきらびやかな彫刻に彩られ、近世初期に建てられた霊廟の中でも、代表的な建築のひとつとして世界遺産に登録されています。 右が家康を祀る「東照宮霊屋」、左が秀忠を祀る「台徳院霊屋」です。「東照宮霊屋」の前に鳥居が立っているのは、徳川家康が神として祀られていることを意味します。高野山ならではの「神仏習合」です。 建築物としての美術的価値も高いのですが、歴史的に見ても、仏教を含めた宗教を厳しく統制した江戸幕府と、密教との関係を伝えてくれる貴重な史跡です。


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金輪塔と影向明神、鬼子母神(金輪公園)

徳川家霊台からバス通りをさらに北西に進むと、左側に「金輪公園」という公園があります。ここに立つ金輪塔は、平安時代の高僧、明算(めいざん)が創建した宝塔です。 明算は高野山検校として奥の院の拝殿などの造営を行った、高野山中興の祖と呼ばれる人物。現在行われている法要の多くは、明算の時代に始まったものです。 現在の金輪塔は江戸時代後期の1834年に再建されたもの。金輪仏頂尊を本尊として祀っています。 公園の南側(左側)には「影向明神」という社があります。ここに祀られている丹生明神(丹生都比売命)と高野大明神(狩場明神)は、空海の開創伝説に登場する高野山の守り神であり、高野山信仰の原点でもあります。 近くには「鬼子母神(きしもじん)」の社もあります。鬼子母神とはインドの女神、ハーリーティーのこと。数百人の子どもを産み、その子どもを育てられるだけのエネルギーを維持するため、他の子どもをさらって食べていたという恐ろしい神でした。 しかし、釈迦に「子どもを奪われた母親の悲しみ」を身をもって教えられてからは心を改め、それまでとは逆に、子どもの安全を守る仏となりました。 神様すらも改心させてしまった釈迦、すごいですね。この鬼子母神を含め、インドの神々は「天界」に住む仏として仏教に取り込まれています。神仏習合はインドの初期仏教でも行われていたのです。 鬼子母神は、日本では法華経の守護神として日蓮宗の寺院で祀られることが多く、東京の雑司ヶ谷にある鬼子母神堂が有名です。密教とも深いかかわりがあり、九度山の慈尊院にも鬼子母神があります。

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女人堂

女人堂(にょにんどう)は、高野山が女人禁制だった時代、高野山に入れない女性のために設けられた参籠所です。ナビ地図で表示

女性たちは、奥の院の弘法大師御廟に直接お参りをすることはできなくても、少しでも近い場所で祈りを捧げたいと「禁制の山」を目指したのです。そして、彼女たちにとっての終着地である女人堂に籠もり、一晩中真言を唱えました。 「女人堂」はかつては高野山に至る7つの参詣道「高野七口」のそれぞれにあり、それら結ぶ「女人道」を歩いて、それぞれのお堂に籠もる「女人堂めぐり」も行われていました。 空海が高野山を女人禁制に定めた理由はいくつか考えられますが、女性蔑視による差別ではなかったことは明らかです。奥の院の供養塔をよく見てみても、高野山が男性にとって以上に、女性にとって特別な場所だったことが分かります。 近世までの女性たちにとって、高野山は「たどり着けないからこそ尊い」聖地でもあったのではないでしょうか。そのことを象徴しているのが、この女人堂であり、女人道です。 建物が現存しているのは京街道(東高野街道、または不動坂口)のこの女人堂だけですが、今でも女人道を歩いて女人堂跡をめぐることができます。 明治5年に女人禁制が解かれてからは、女人堂は高野山参拝者の休憩所として利用されました。 高野山駅からバスに乗ると、バス専用道路を通った後、この女人堂の脇から高野山に入ることになります。つまり今では、多くの参拝客や観光客にとって、この場所が大門に代わる高野山の「入り口」になっているのです。


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ルート地図⑦ 女人堂~小田原通り

女人堂からは、同じ道を引き返して再び高野山の中心部を目指します。 「女人堂」停留所からバスに乗って一気に「千手院橋」停留所まで行ってもいいですし、途中の宿坊に立ち寄って休憩したり、精進料理などを味わってから行くのもいいでしょう。

女人堂~小田原通り

次に目指す見どころは、高野山のメインストリート「小田原通り」にある寺院「高室院」です。この通りに神奈川県の都市の名前がついた背景にも、戦国時代の歴史が関わっています。

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小田原通り

金剛峯寺から高野山のへそ、千手院橋を通って奥の院へと東西にのびる道は高野山のメインストリートで、「小田原通り」と呼ばれています。 ナビ地図で表示 この辺りには、食事処や土産物屋も多く集まっています。

小田原通り

「小田原」の由来となっているのが、千手院橋のすぐ東にある宿坊寺院「高室院(たかむろいん)」です。

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高室院

高室院は、12世紀に、村上天皇の子孫である房海僧正が創建しました。その後、天河弁財天女の化現と言われた大聖僧正(高野山第9世)などの高僧を輩出しています。ナビ地図で表示 安土桃山時代の天正18年(1590年)、小田原北条氏第五代・北条氏直は豊臣秀吉の小田原征伐を受けて降伏。高野山へ流罪となりました。その北条氏直が蟄居していたのが、この高室院です。 それ以降高室院は「小田原坊」とも呼ばれ、関東との関わりが深い宿坊となりました。明治時代には近隣の大乗院と発光院を吸収合併しました。その後本堂は焼失し、現在の建物は昭和59年(1984年)の再建です。


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ルート地図⑧ 小田原通り~金剛三昧院

このまま小田原通りを西に進んでいけば、奥の院に行けます。 しかし、少し南にも重要な国宝・世界遺産がある寺院があるので、ぜひ寄り道して行きましょう。

小田原通り~金剛三昧院

高室院の東側から脇道に入り、南のほうに進んで行った先にある「金剛三昧院」です。 実はこの道は、世界遺産に指定されている「高野参詣道」のひとつ、「熊野古道小辺路」です。高野山から熊野三山に向かう巡礼の道は、ここから始まっているのです。 2つ目の交差点を右折して南西に向かうと「熊野古道小辺路」が続きますが、金剛三昧院に行くためには、この道も直進して、突き当りまで進みます。

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金剛三昧院

金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、高野山大学の南東の奥まった場所にある宿坊寺院。世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素の一つです。ナビ地図で表示 高野山の宿坊寺院にはそれぞれ独自の歴史がありますが、その中でもこの金剛三昧院は別格です。高野山の鎌倉時代がここに凝縮されていると言ってもいいでしょう。


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ルート地図⑨ 金剛三昧院~不動院

金剛三昧院の拝観・観光が終わったら、いったん小田原通りに戻ります。来た道と同じルートで北に行ってもいいですし、「熊野古道小辺路」との分岐からショートカットしても構いません。 以下の地図では、ショートカットをするルートを表示しています。熊野古道小辺路とは逆に、北東に進みます。

金剛三昧院~不動院

この分岐の辺りから丘を登っていくと、高野七弁天のひとつ「圓山弁財天(丸山弁財天)」があります。 小田原通りに戻ったら、次に目指す見どころは「不動院」という寺院です。ここには、高野山と女性との関わりを考える上で、非常に重要な史跡があります。


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圓山弁天社

「圓山弁天社(まるやまべんてんしゃ)」は、空海の高野山開創にまつわる信仰の地であり、水源の守護神でもあった「高野七弁天」のひとつです。 この辺りは「南小田原地区」と呼ばれますが、圓山弁財天はその中心にある楕円形の丘、「圓山(まるやま)」の上に鎮座しています。「圓山」という漢字は読みにくいので、「丸山弁財天」とも表記されます。 お参りするには、金剛三昧院の北にある分岐を熊野古道小辺路とは逆に進み(金剛三昧院から来た場合は右折)、左手(北側)にある最初の民家の横にある階段から登っていきます。 神体は水と豊穣の天女、弁財天と、弁財天に仕える十五人の童子。いずれも空海が高野山に呼び寄せたと伝わります。 日本独自の「十五童子信仰」を伝える「圓山弁天社」

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不動院・美福門院陵

小田原通りに戻ったら、少し東に進み、「蓮花谷」停留所の先で再び南に向かい、寄り道をしてみましょう。その突き当りにある静かな宿坊寺院が「不動院」です。 「不動院」の本尊は弘法大師が彫ったという不動明王で、100年に1度、開帳されます。宿坊としても評価が高い寺院です。 この不動院の境内には、鳥羽法皇の后だった藤原得子(ふじわらのとくし/ふじらわのなりこ)という女性の陵墓があります。藤原得子は、美福門院(びふくもんいん)という院号でも知られます。 貴族政治が終わり、700年にわたる武家政治が始まるきっかけを作った保元の乱(1156年)。この乱の原因をつくったのは「待賢門院」と「美福門院」という二人の女性でしたが、より主体的に動き、勝者になったのは美福門院の方でした。 美福門院の歴史への影響力は、それだけに留まりません。 平治の乱(1160年)の勝敗を決めた主因も、美福門院たちの一派が平清盛に味方したことでした。そして美福門院の死後も、以仁王の挙兵、木曽義仲による平氏政権の打倒、さらには後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒において、美福門院の遺領「八条院領」の武士たち(主に足利氏)が大きな役割を果たしたのです。 高野山に強い思い入れがあった美福門院は、「俺と同じ場所で眠ってくれ」という鳥羽上皇の遺志に背いてでも、高野山に埋葬されることを強く希望しました。その結果、この不動院に美福門院陵がつくられたのです。 その後の高野山は、女性たちにとって「生前は無理でも、死後には行くことができる浄土」となり、奥の院には女性の供養塔が次々と立てられることになります。 美福門院は、世俗の歴史だけでなく、信仰の世界にも大きな影響を及ぼしていました。


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ルート地図⑩ 不動院~苅萱堂

再び小田原通りに戻り、東に進みます。

不動院~苅萱堂

通りから少し南に入った所にある「清高稲荷神社」は、密教の改革者、覚鑁(または空海)が京都の伏見稲荷から高野山に招いたと伝わるお稲荷さん。不動院の美福門院陵に興味が湧いた方であれば、こちらもセットで訪れてみるのがおすすめです。 「苅萱堂前」停留所の目の前にある「苅萱堂」は、親子の情と修行の道の狭間で苦しんだ父子の物語の舞台です。


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清高稲荷神社

清高稲荷神社(きよたかいなりじんじゃ)に行くには、北室院の東側にある「いかにも稲荷神社」という感じの鳥居のトンネルをくぐって、階段をのぼっていきます。 本殿では、立派なキツネたちがお出迎えしてくれます。 本殿の裏には、ヒノキとスギの大木がからみあっている御神木があります。ヒノキが男性、スギが女性とされ、「男檜と女杉の結合」ということになり、知る人ぞ知るパワースポットになっています。 こうした信仰の背景には、中世において、稲荷信仰と真言密教が二人三脚で全国に広まったことも関係しているのではないかと考えられます。 稲荷神は、密教にとって重要な天女(または夜叉)である「荼枳尼天」と同一視されていましたが、この荼枳尼天は「性の女神」としての側面も持っていたのです。 平安時代後期の貴族社会では、荼枳尼天が持つ特殊な呪術への信仰が広まりました。そして、その時代を代表する女性が、この「清高稲荷神社」のすぐ南西に葬られた美福門院(藤原得子)でした。 清高稲荷神社と、「九尾の狐」にも例えられた美福門院の陵墓との位置関係は、ただの偶然によるものだったのでしょうか?

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苅萱堂

苅萱堂(かるかやどう)は、奥の院の入り口・一の橋の300メートル西側にあり、浄瑠璃などで知られる「石童丸物語」の舞台です。ナビ地図で表示

苅萱堂

平安時代末期、九州・太宰府の苅萱の関の関守だったと加藤左衛門繁氏は、世を儚んで出家し、苅萱道心と称して高野山で修行の生活を送っていました。 その直後に生まれた息子の石童丸は14歳の時、父と会うため高野山へやってきます。女人禁制のため同行の母は学文路(かむろ)の宿に残り、一人で登ったところ、奥の院の御廟の橋で僧侶と出会いました。 この僧侶こそが苅萱道心であり、石童丸の話から我が子だと察しますが、苅萱道心は世を捨てた身であったため、石童丸に「そなたの父は死んだ」と偽りました。 石童丸が山を下りると、長旅で病んだ母は亡くなっていました。石童丸は母の遺骨を持って再び高野山に登り、苅萱道心に弟子入りし、道念と名乗ります。実の親子であることを伏せたままの師弟関係でした。 やがて刈萱道心は、親子の情愛にひかれて修行がおろそかになることを恐れて高野山を去り、信州の善光寺に赴きます。そこで地蔵菩薩を刻み、1214年に信州の「苅萱堂往生寺」で83歳で亡くなりました。道念(石童丸)の父であることは、生涯伏せたままでした。 その後道念は信州の方角に紫雲がなびいたのを見て善光寺に行き、父の彫刻を手本に、地蔵菩薩を刻みました。 ここ高野山の苅萱堂は、苅萱道心が高野山で修行していた場所と伝わっていて、「石童丸物語」を絵で紹介しています。出口の手前には、父子が刻んだという「刈萱親子地蔵尊」が安置されています。 この絵物語を見た人々(特に女性)の多くが、感動して真言宗に入信したと伝わっています。


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ルート地図⑪ 苅萱堂~奥の院

高野山めぐりの旅も、ついに最終コースに入りました。 苅萱堂のすぐ先にある「一の橋」を渡って、聖域中の聖域「奥の院」に入っていきます。

苅萱堂~奥の院

「苅萱堂前」停留所から「奥の院前」停留所まで一気にバスで移動し、「中の橋駐車場」の辺りから一気に弘法大師御廟を目指すこともできます(地図のオレンジのルート)。 しかし、時間さえあれば、一の橋から参道を歩くのが正式であり、おすすめのルートになります(地図の赤色のルート。帰路はオレンジのルートを利用)。 奥の院の参拝・観光が終わったら、「奥の院前」停留所でバスに乗ったり、「中の橋駐車場」から車に乗ったりして帰ることもできます。さらに時間に余裕があれば、一の橋まで別ルートを歩いて戻り、その後は小田原通りで土産物屋やカフェに立ち寄ったりしながらゆっくり散策をしてみましょう。

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奥の院

奥の院(奥之院)は、空海が今もなお、人々の幸せを願って瞑想を続けていると言われる場所。その弘法大師御廟がある特別な聖地です。ナビ地図で表示 空海だけではありません。弘法大師御廟に続く参道の周辺には、平安時代以降の歴史に名を刻んだ武将や高僧、そして女性たちの墓所や供養塔がずらりと並んでいます。 平敦盛、熊谷直実、上杉謙信、武田信玄、伊達政宗、石田三成、明智光秀、親鸞、法然、お江、千姫、織田信長、豊臣秀吉などなど・・・ 多くの人にとって、この奥の院の訪問こそが、高野山を目指す一番の目的なのではないでしょうか?

四国八十八箇所の巡礼の旅を終え、弘法大師にお礼参りをするお遍路さんはもちろんですが、そこまで空海に強い思い入れがない人や、真言宗とは違う宗派を信仰する人、さらには仏教には興味がない人にとっても、この奥の院は特別な場所となっています。 現代の企業が立てたユニークな供養塔があったり、第二次大戦の戦没者や戦艦の殉難者の供養塔があったり、仏教の聖地に立っていることが信じられない内容の文学碑がいくつもあったり、最近ではジャニー喜多川氏の墓所もできたりと、それぞれの興味に応じて巡ることができます。 このサイトでは、戦国武将たちの供養塔を中心に、それぞれの歴史背景も含めてご紹介します。